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青森県むつ市字田名部

2012/07/10取材

会津戦争で敗れた会津藩は、明治元年(1868)9月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった。しかし翌明治2年(1869)9月、太政官より家名再興を許され、松平容保の嫡男の、わずか2歳の容大を当主とし、陸奥三戸、上北、下北の三郡を中心に、禄高三万石の立藩が許された。

これは、事実上の挙藩流罪であったが、朝敵の汚名を着せられた会津藩であったが、その勤皇の志は強く、漢詩の一説「北斗以南皆帝州」からこの地を「斗南」と名付けた。会津藩士らは、新たな地の開拓に夢を託し、この地を開拓の拠点とすべく市街地を設置し「斗南ヶ丘」と名付けた。

明治3年(1870)、一戸建約30棟と、二戸建約80棟を建設し、東西にはそれぞれ大門を設け門内の乗打ちを禁止し、18ヶ所の堀井戸をつくった。市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割され、一屋敷を100坪単位として土塀をめぐらせ区画したと云う。しかし過酷な風雪で倒壊したり、野火にあうなどした家屋が続出し、藩士たちの生活は難渋し、命を失うものも多かった。

さらに、明治4年(1871)には廃藩置県となり、当主の容大は東京に去り、心の支えを失った藩士たちは次々に離散し、その多くは会津に帰郷した。これにより斗南藩の新天地開拓の夢ははかなく消え去り、その努力も水泡に帰した。

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