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青森県平内町狩場沢字関口、野辺地町字柴崎

震災前取材

 

この地を流れる小川の二本又(ふたまた)川が南部藩と津軽藩の藩境になる。街道上に小川をはさみ、南部馬門(まかど)村側と津軽狩場沢村側にそれぞれ二基ずつ、四基の塚が築かれた。

塚の大きさは、高さ3.5m、底面直径は約10mで、築造年代は明らかではない。

津軽はもとは三戸南部氏が支配していた地だった。戦国末期、津軽為信は南部氏の内紛に乗じ津軽独立を果たした。しかし南部氏にとってそれは不法なものとの思いがあったようで、その確執は江戸期も続き、戊辰戦争の折にも、津軽は西軍に、南部は東軍に分かれて戦った。

現代になってもなお、同じ青森県でも、「津軽」と「南部」に分かれることが多いと聞く。

この地の塚は、そのような歴史の象徴的なものである。