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青森県黒石市字浅瀬石

2012/11/04取材

 

別名:汗石城

浅瀬石(あせいし)城は、比高約20~30mの浅瀬石川の河岸段丘上に築かれた平山城である。城域は大きく、東西約300m、南北約550mほどで、城縄張りは南側の丘陵突端の主郭を中心に、丘陵続きの東側、南側に二ノ郭、町屋敷、侍屋敷を敷設した梯郭式縄張りで構築されている。

本郭は、東西約170m、南北約180mで、東側、南側に堀を配し、北側は沢となっている。二ノ郭は本丸郭の東に位置し、東西約60m、南北約80mで、南側、西側に掘を配し北は沢となっている。侍屋敷、町屋敷は、浅瀬石城の城下であり、往時は家中侍屋敷530軒余、町屋敷1230軒余、近在の家200軒余があったとされる。また、本郭のある丘陵とは沢を隔てた北側には、代官館、御堂館があり、出丸のような役割をしていたと思われる。

築城時期、築城主ともに定かではないが、文治5年(1189)、源頼朝の奥州攻めで軍功をあげた南部光行は、戦後、陸奥糠部郡を所領として宛がわれ、一戸南部氏の祖である庶長子の行朝を浅瀬石に分知し、仁治元年(1240)、行朝の嫡子行重が居館として築いたと伝えられ、城主は代々千徳氏を名乗るようになった。

浅瀬石城は、以降南部氏の津軽支配の拠点となったが、津軽で大浦(津軽)為信が勢力を伸ばしてくると、永禄4年(1561)、城主の千徳政氏は大浦為信と同盟を結んだ。この時、為信との間に、津軽統一後これを二分して支配する事を約したと言われており、この盟約に従い、大浦勢と共に天正3年(1575)大光寺城を攻略、天正13年(1585)には、千徳氏の分家の田舎館城の千徳掃部政武を攻略した。また為信は元亀2年(1571)、津軽郡代石川高信の石川城を、天正6年(1578)には北畠氏の浪岡城を、天正16年(1588)には朝日氏の飯詰城をと次々に攻略し、津軽平野の制圧に成功した。

これに対し三戸城の南部信直は、天正13年(1585)4月、東政勝を攻手として、3000の軍勢で浅瀬石城を攻撃した(宇杭野の合戦)が、千徳氏によって撃退された。しかしこの時、大浦為信は浅瀬石城に援軍を送らず、このことが後年、千徳氏と津軽氏の不和の原因になったと伝えられる。

天正18年(1590)、大浦為信は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、所領を安堵され、南部氏から独立した勢力として正式に認知された。しかし、千徳氏は、領地を減じられ、家臣を150人まで減らして為信の支配下に入るよう命じられ、政康はこれを不服として、大浦氏と臨戦状態に入った。

慶長2年(1597)、大浦勢は2500の軍勢で浅瀬石城を攻撃、政康ら2000の城兵は三度突入して大浦勢を三度撃退したが、千徳氏の家臣団は分裂し、為信派の重臣木村越後らが城を急襲し、大浦勢の総攻撃によりついに落城し政康は自害した。