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青森県黒石市字温湯

400年ほど前、里人がこの地の浅瀬石川の葦原で、片足に傷を負った鶴が葦原の中の清水に浴しているのを見た。これを不思議に思い調べてみたところ、湯がわき出ているのを見つけた。傷ついた鶴はやがて快癒して飛び去ったという。里人は見つけた温泉を「鶴羽立」と名づけ、「鶴泉」とも称されるようになった。

天正19年(1591)、浪岡城北畠氏の重臣の工藤次郎左衛門がこの地に住し湯宿を設けた。これ以降、湯治場として知られるようになった。

寛永元年(1624)、津軽に配流中の花山院忠長がこの地に来たり入湯し、温泉の効験を賞し歌に詠み、この地を「温湯」と名付けたと云う。

雲の上に 聞こえあけはや 葦田鶴の いえしいで湯の しるきしるしを

それ以降、江戸時代には名湯として津軽中に広く知られるようになり、弘前藩主たちも度々入浴に訪れた。また、明治11年(1878)この地にイギリスの女性旅行家のイザベラバードが訪れ入浴したようで「熱い温泉があり、入浴している人たちから礼儀正しさを感じた」と書き残している。

温湯温泉は、開湯伝説に因む共同浴場「鶴の湯」を中心に、その周囲に「温泉客舎」が立ち並ぶ。温泉客舎はいずれも明治後期から大正にかけての木造建築であり、鄙びた温泉場の風景を構成している。客舎は内湯を持たず、客は外湯に入りに行くという昔ながらの湯治場のスタイルで、今もそれを踏襲している旅館も多い。

この地には、花山院忠長の伝説が多く伝えられる。忠長は藤原北家の流れの江戸初期の公家で左近衛少将だった。慶長14年(1609)、後陽成天皇の女官と密通した罪により、徳川家康の裁定で蝦夷流罪が決定し、その後津軽に移された。忠長は、松前や津軽の配流地に京風の文化を伝えた。

・サケの背を渡った忠長
忠長が浅瀬石川を渡ろうとしたが橋がなく困っていた。するとサケが群れ集まり背を並べて橋になり、忠長はサケの背を踏んで川を渡った。それ以降、この川のサケの背には2条の下駄の歯型がついたという。

・竜宮に届いた忠長の手紙
忠長は、時折浅瀬石川で釣りをしたが、川に魚が少なくなると、カンナ屑に魚の名を書き川に流した。それが海に入り竜宮に届くと、竜宮から所望の魚をたくさんこの川にのぼらせてよこしたと云う。nbsp;

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