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青森県黒石市字豊岡

2012/11/03取材

 

館跡は、この地の稲荷神社を中心とする地と伝えられ、城域は神社境内からその南東側一帯の、現在集落となっている地域であると思われる。稲荷神社周辺の水路や、段築などが遺構とも思われるが、定かではない。

築城時期や築城者などは定かではないが、文治5年(1189)6月、奥州藤原氏滅亡の際に、現在の福島県石名坂の戦いで、平泉方として戦い敗れた信夫の庄司の佐藤基治は、この地に逃れきて住したと伝えられる。基治は、この地にかつての領地と同じ「石名坂」と名付け、その後、石名坂氏を称するようになったと伝える。

鎌倉時代初期の仁治元年(1240)、この地の近くの浅瀬石に南部氏一族の南部行重が入り千徳氏を名乗り、津軽六代官の一人としてこの地一帯を支配した。石名坂氏は争うことなく、千徳氏と協力関係をもったと考えられる。

南北朝期には、浅瀬石城千徳氏から石名坂氏に小四郎久清が嗣子として入り、この頃には実質的には千徳氏の支配下に入っていたと思われる。戦国期の石名坂近江正長が館主の時には、度々合戦に出陣し手柄をたてており、文禄3年(1592)8月に、千徳政康が大浦為信と手切れした際には、政康の代理として大浦城に使いとして出向き、為信に従わない旨を伝えている。

大浦為信が自ら軍勢を率いて、浅瀬石城攻めを開始すると、石名坂正長は城方として奮戦し討ち死にした。石名坂館は、この敗戦により主を失い廃館となったと考えられる。