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青森市浪岡大字浪岡

川原館は、浪岡川を挟んで南側の河岸段丘上にあった。現在は住宅地になっており、館跡を示す標柱はあるが、遺構らしいものは見られない。

南朝方の凋落により、北畠氏は南部氏や安東氏の庇護を受けて浪岡に入った。その後、戦国期までにその勢力を伸ばし、南部氏の保護を受けながらも、津軽地方の支配を強化することに尽力し、津軽の北部と東部、南部の山沿いにかけて、郡中のおよそ半分を支配していた。

浪岡北畠氏五代顕具、六代具永の代の文亀年間(1501~04)、その勢力は最大となった。具永は朝廷から官位を受けることに執着し、左中将の官位を得て、それを勢力保持に利用して一門の発展につとめた。

具永のあとを継いだ具運は、油川の熊野権現宮や今別の八幡宮など寺社の修築に尽力し、京都の文化を津軽にもたらした。しかし、それは浪岡北畠氏の財政を逼迫させる一因ともなった。

川原館は川原御所とも呼ばれ、北畠顕家の甥にあたる守親が、宗家四代顕義が幼少であったため、その後見役として浪岡に入り川原に御所を構えたことに始まるとされる。その後、六代具永の次男具信が川原に入り、川原御所を復活した。

しかし、一族間の領地争いから、川原御所具信は宗家の具運に恨みを持ち、永禄5年(1562)正月、子顕重をともない新年の挨拶と称して浪岡御所を訪ね、具運に斬り掛かりこれを殺害した。しかし駆けつけた具運の弟の顕範に討ちとられ、川原の一族は滅亡した。

この騒動により、浪岡北畠氏に仕える有能な武士たちは主家に見切りをつけ、浪人したり他家に仕える者が続出したといい、浪岡北畠氏の衰退は決定づけられた。

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