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青森市浪岡大字浪岡字林本

2013/04/27取材

青森市の浪岡は、南朝の北畠氏が、南朝衰退後も北朝に頑強に抵抗しながらも次第に押され、南朝方の有力領主達の保護を受けながらみちのくを北上し最後に到った地だ。南朝三代目の長慶天皇が、皇太子の時期まで含め、この地になんらかの関わりを持ったことは十分に考えられる。

長慶天皇は、その実在まで含めて謎が多く、その陵墓だとするものが、この地を含め20箇所ほどもあるという。しかしこの地にある伝承は、単に陵墓だけではなく、皇子や妃の墓もあったりと、実在の生活を思わせる。

この地の塚は、長慶上皇の中宮とされる菊代姫の墓と伝えられる。一説には、菊代姫(菊理姫)は、伊勢北畠氏の祖である北畠顕能の長女であると伝えられ、長慶上皇に従った新田氏一族の新田宗興の養女だったと云う。菊代姫は皇妃として、津軽の地まで上皇に付き従ったといわれている。

この「菊代姫の墓」も伝承であり、史跡に指定されているものではない。そのたたずまいも、小さな円墳上に祠があるだけのものでわびしいものだが、この地の人々は数百年もの長きにわたって、その「史跡」を保存し、伝説を今に繋いでいる。