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青森県青森市柳川1丁目

2013/04/26

青函連絡船として活躍した八甲田丸は、現在係留され、博物館メモリアルシップ八甲田丸として公開されている。

現在係留されている岸壁は、昭和63年(1988)に廃止された青函連絡船の岸壁で、駅構内から連絡船につづく車両搬入口と引込線も往時の姿のまま残されている。

内部は地下1階から4階まであり、車両甲板には、北海道で特急として使用されたキハ82形特急形気動車や郵便車スユニ50などが展示されている。また、船室や寝台室などが一部往時のまま残され、実際に座ったり横になったりすることができる。

青函連絡船は、明治41年(1908)から昭和63年(1988)まで、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んでいた。旅客に加え、船内に鉄道車両をそのまま積み込んで津軽海峡を渡っていた鉄道連絡船である。

本州と北海道間の一般的な移動手段が鉄道だった時代には、メインルートだった。青森発着の「はつかり」などの特別急行列車や、特急「はくつる」や急行「八甲田」などの夜行列車、函館発着の特急「おおぞら」や急行「宗谷」などの優等列車や夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組んでいた。札幌での時間を有効に使えることから、利用率はかなり高かった。

列車が青森駅や函館駅に到着、あるいは連絡船がそれぞれの桟橋に着岸した際には、目指す船や列車の席を確保しようとする乗客でプラットホームや跨線橋がごった返す様子もみられ、荷物を抱えた乗客が競って駆け出すことから「桟橋マラソン」と呼ばれる光景を見せていた。ときには接続する連絡船が定員を超えて、乗船できない「積み残し」が起こることもあった。

本州と北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物は昭和46年(1971)に、旅客は昭和48年(1973)にピークを迎えたが、航空機やフェリーの利用の増加などの要因により、昭和49年(1974)以後は利用が減少傾向に転じた。

その後「国鉄離れ」に歯止めがかからず、末期には閑散としていた。それでも青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆や、弘前、函館の観桜の時期が一致するゴールデンウィーク、年末年始などには超満員となることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。

昭和63年(1988)3月の青函トンネルの開通に伴い、青函航路の通常運航は終了し、青森-函館間の連絡は青函トンネルにゆだねられた。その後、青函トンネル開通記念博覧会に合わせて同年6月から9月まで、1日2往復の復活運航がなされ、これが終了した時点で青函連絡船は正式に廃止、津軽海峡から完全に姿を消した。