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青森県藤崎町字水木

2012/11/04取材

水木城は、沼沢地を堀とし、微高地に館を構えたもので、このような形態の城を溝城といった。現在はリンゴ畑と水田になっているが、大きく見ると、リンゴ畑の部分は郭跡、幾分低地となっている部分が堀跡と考えられる。低地はわずかに堀の形状を残しているが、他に遺構と思われるものは見当たらない。周囲に、八幡宮、熊野堂、薬師堂が設けられ、有事の際には防御的な役割を果たしたものと思われる。
水木城は、川原館を再興した北畠具信に関係する館とされ、北畠氏の一族の水木(溝城)氏の居館とされる。

川原館の北畠具信は、永禄5年(1562)正月、新年の挨拶と称して浪岡城を訪ね、突然具運に斬り掛かりこれを殺害するという「川原御所の乱」が起きた。同時に具信も、駆け付けた家臣に討ちとられ、川原館も攻められ落城した。

その後、川原北畠氏の残党はこの水木城に立て籠もり頑強に抵抗したが、これも間もなく落城し、川原系の北畠氏は没落した。

この騒動により、浪岡北畠氏に仕える有能な武士たちが主家に見切りをつけ、浪人したり他家に仕える者が続出し、浪岡北畠氏の衰退は決定づけられた。
川原館の北畠具信の遺児は一命を助けられ、成人後水木城に入り水木氏を名乗り、後に浪岡氏を滅ぼした大浦為信に服属し、その家系は江戸時代まで続いた。