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秋田県大館市比内町扇田字本道端

震災前取材

 

扇田神明社の創建の詳細は不明であるが、長治2年(1105)創建と伝えられ、文治年(1185~90)の記録がある。その後、天正3年(1575)に、長岡城主浅利民部勝頼により現在地に移築された。

慶応4年(1868)奥羽25藩は仙台藩の白石に集まり奥羽列藩同盟を結んだ。秋田藩の藩論は統一されていなかったが、白石会議に参加し奥羽列藩同盟に参加した。しかし同年7月、秋田に奥羽鎮撫総督九条道孝が入ると、藩論は大きく割れ、秋田藩の態度不明確をいぶかしんだ仙台藩は、使者11名を秋田に送った。秋田の新政府支持派はこの仙台藩の使者を殺害し、結局秋田藩は新政府につくことになった。

同盟側はこれに激怒し、南側からは庄内藩と仙台藩が、東側のこの大館方面には南部藩が鹿角から千数百人の兵力で進攻し、この地に陣を敷き大館城をうかがった。これに対し秋田藩兵数百人が急襲した。戦いは熾烈で、双方合計数十名の戦死者が出たと云う。

劣勢の秋田藩は大館城に集結し、大館城下での攻防戦となったがここでも破れ、城に火を放ち退城した。その後、新政府軍の援軍を得て、羽州街道の難所のきみまち阪に陣をかまえ南部勢を破り、9月6日に大館城を奪回した。

神明社の社殿は、この戊辰戦争で焼失し、明治7年(1874)、佐竹義遵らによって現社殿が再建された。境内には、戊辰戦争で戦死した秋田藩兵2名の墓と、戦闘の際打ち込まれた弾玉が入ったままになっている杉の老木がある。