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秋田県大館市十二所

震災前取材

 

三哲神社の祭神は、実在の人物の千葉秀胤とされる。秀胤は南部藩福岡の出身で、江戸で学問、医術、武芸の三道を学び帰郷したが、故あって所々を流浪し、のちにこの十二所の地の宍戸、菊池両氏の食客となった。

性格は剛毅で、他を圧するような威厳を備えていたが、義侠心が厚く、貧困者を救済し、強き者の横暴を憎み、弱き者に見方する人物であったために人々からは好かれ、文学、武芸、医術に優れていたため 「三哲様」と呼ばれていた。

ある時、城代の塩谷民部重綱が重い病を患い、三哲はその治療を命じられたが、この城代は日頃から権力を振りかざし、領民を苦しめていたので、治療の報酬として米10石を要求した。城代はこの条件をのみ三哲の治療を受け完治した。しかし城代は約束を守ろうとはせず、そのため三哲は、上納米から10石を奪い取り、貧しい人たちに施した。

城代は大いに怒り、3人の捕手を差し向けた。捕り手たちは、大滝温泉で入浴中の三哲を太い捧で殴りつけ補縛し、三哲はその二日後に息絶えた。時に享年49歳だった。三哲は死ぬ前に「十二所を見守れる蝦夷森の中腹に葬れ、そうでないと十二所に大火が起こる」と言い残したが、村人らは罪が自分らに及ぶことを恐れそうしなかった。

ところが、4年後の延宝4年(1676)、十二所に大火があり町は全焼した。村人は大いに恐れ、改めて蝦夷森の中腹に葬り祀った。城代も領民の不信を買って城を追われた。この頃から、蝦夷森は、三哲山と呼ばれるようになった。