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秋田県大館市比内町独鈷

震災前取材

 

別名:独鈷城

十狐城は炭谷川が屑川に合流する地点の北東側の比高約30mの丘陵上にある。かつては四郭を持つ群郭式の山城で、深い空堀によって区画されている。主郭を中心に、西に二の郭、東に四の郭、北側に三の郭が配されていた。主郭と三の郭間の空堀と主郭東側の空堀は、もとは連続していた丘陵を掘り切ったものと考えられる。また主郭東側の丘陵基部の堀と主郭北側の堀は、水堀だったと思われる。

築城年代は定かではないが、永正年間(1504~21)に甲斐から下向した浅利則頼によって築かれたと伝えられるが、それ以前に南部氏の城としてあったとも考えられる。

浅利氏は、文治5年(1189)の源頼朝の奥州討伐の戦功で、比内郡の地頭職を得た。浅利氏は甲斐の浅利郷を本貫地としており、鎌倉中期に浅利氏の庶流が入部し、比内浅利氏としてこの地を支配した。

南北朝期の建武元年(1334)、陸奥守北畠顕家が南部師行に鹿角と比内郡を給付したため、浅利氏は北朝方として、北畠氏、南部氏などの南朝勢力と争うようになった。延元元年(1336、建武3年)、浅利清連は、曽我氏らとともに鹿角大里城を攻めたが、成田勢は南部師行の支援をえて、曽我、浅利勢は敗退した。しかし翌年にも鹿角に攻め込み、南朝方の城館3ヶ所を攻め落とした。以後は北朝方が次第に優勢になり、比内地方の浅利氏の支配が確立した。

しかし、その後檜山地方には安東氏が勢力を拡大し、また南部氏も仙北、比内地方に勢力を拡大しつつあった。浅利氏は大勢力にはさまれながらも、安東氏と南部氏の対立を利用して、なんとか比内地方に勢力を維持していた。そして戦国期初期の16世紀初頭に、甲斐から浅利氏嫡流の浅利則頼が一族と共に入部し合流した。

その当時は、比内の中心部は南部氏の支配下にあり、浅利氏は比内の外れの赤利又を拠点としていたようで、則頼も始めは赤利又に入った。当時、十狐城には南部氏家臣の十狐次郎五郎がいたが、則頼ら浅利勢は夜襲をかけて攻め落としたとされる(異説あり)。以降、則頼は十狐城に入り、笹館城、花岡城などを築き、一族を配し比内地方に勢力を拡大していった。

天文19年(1550)、則頼が死去すると、その跡を則祐が継いだ。則頼には則祐と勝頼の男子2人がいたが、どちらも俊秀の誉れが高く、浅利の竜虎と称されていた。そのため後継を巡って兄弟は不和になり、家臣も則祐派と勝頼派に大きく割れた。

比内地方を伺う安東愛季はこの後継争いに介入し、長岡城を攻めて、長岡城で則祐を自害させた。弟の勝頼が中野城から十狐城に入り浅利氏を継いだが。この経緯から安東氏の支配下に入ることになった。しかし勝頼はそれを良しとせず、安東氏の注意が南の由利地方に向けられるようになると、これを好機として安東氏と争うようになった。

天正9年(1581)頃からは激しく争うようになり、戦いは浅利勢が有利に進めた。このため安東愛季は謀略を用い、天正10年(1582)和睦をもちかけ、その和睦の席で勝頼を浅利氏の家臣に刺殺させた。これにより浅利氏の一族は津軽為信のもとに逃れ、浅利氏は勝頼の子の頼平が継いだ。

比内地方は檜山安東氏の支配地となり、その後、一時期比内は南部領となったが、天正18年(1590)には再度安東氏の支配地となった。津軽為信の許に身を寄せていた勝頼の遺児頼平は為信の後押しを得て比内に戻り、安東氏の代官として比内郡を支配した。

しかし頼平は独立をはかり、豊臣政権で盛んに中央工作を行い安東氏と争うようになったが、その裁定中に大阪で急死した。この急死は毒殺との噂もあり、独鈷城では浅利氏一族が蜂起したが、安東氏がこれを鎮圧し比内を平定した。十狐城はこの時に廃城になったと考えられる。