秋田県大館市比内町扇田

震災前取材

 

長岡城は、扇田集落の南東約800mの比高約8~10mの丘陵上に位置する。北西から南東にかけて細長く、長軸約450m×幅約80m。現在城跡は住宅地と畑地になっており、城跡の遺構と思われる地形は随所に見られるが、後世に変造されたものかどうかは定かではない。

浅利氏は。甲斐の浅利郷を本拠としていたが、源頼朝の奥州征伐の功により比内地方に地頭職を得た。南北朝期には北朝方につき、南朝方の南部氏と戦いを繰り広げた。16世紀はじめになると、甲斐の浅利氏の嫡流である則頼が、一族とともに国を出て比内の浅利氏と合流し、本拠地を独鈷城に置き、長岡城、大館城、花岡城などを配し比内地方の支配権を確立した。

則頼の死後は則祐が継いだが、弟の勝頼とは不和で、家臣も両派に分かれて内紛状態にあった。檜山の安藤愛季はこの内紛に介入し、長岡城を攻め、則祐はこの城で自害した。則祐の死後は、弟の勝頼が浅利氏を継ぎ、中野城から独鈷城に、そしてこの長岡城に入り一族を率いた。しかしこのことで浅利氏は安東氏の支配下に入ったものの、勝頼はそれを良しとせず、安東氏の注意が南の由利地方に向けられるようになると、これを好機として安東氏と争うようになった。

抗争は年々激化し、天正9年(1581)頃からは激戦となり、戦いは浅利勢が有利に進めた。これに対し安東愛季は和睦の提案をし、天正10年(1582)、長岡城にて和睦会談が設けられた。このとき愛季は謀略を用い勝頼を家臣に刺殺させた。これにより浅利氏の一族は津軽為信のもとに逃れ、浅利氏は勝頼の子の頼平が継いだ。

その後、津軽為信の斡旋などにより頼平は比内に戻ったものの、豊臣秀吉の奥州仕置で、浅利氏は安東(秋田)実季の被官とされた。しかし頼平はこれに納得せず、その後も安東(秋田)氏との紛争は続き、独立を目指し中央工作を盛んに行った。しかし次第に孤立化し、慶長3年(1598)、頼平は大坂で急死した。これは毒殺だったとも云われ、これにより領主としての浅利氏は断絶した。

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