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秋田県大館市花岡町字アセ石

2013/08/19取材

 

現在の秋田県立大館工業高校の校地が花岡城の跡である。校舎建設の際に形状が大きく変更されており、高校周辺の、空堀の役目を果たしていたと思われる浸食谷の一部が、城跡の様子を残している。

台地に2本の浸食谷が入り込み、空堀の役目を果たしていたものと思われ、それに挟まれた幅約80~120mの地が城域とされる。現在は、北側のものがその形状をとどめている。幅は約20~30mで、東西に約200~300mの長さで伸び、深さは往時は10mほどあっただろうと推測できる。

戦国時代の初期、浅利氏は南部氏と安東氏の対立を利用しながら比内地方の辺境に位置する赤利又に拠っていた。そこに、甲斐の浅利則頼が合流し、比内地方を支配するため十狐に拠点を築いた。

十狐に入った則頼は、北方の抑えとしてさらにこの花岡城を築いて、弟定頼を城代としておき、比内での勢力を拡大していった。定頼は770石を領したが、天正2年(1574)、山田合戦により討死し、その跡を治郎吉定友が継いだという。

浅利氏は周囲を秋田(安東)氏、南部氏、津軽氏の挾間で、戦国末期は秋田氏に従属していたが、豊臣政権以降は、独立した勢力として中央と接触していた。

しかし結局、慶長3年(1598)、浅利頼平は毒殺され浅利氏は滅亡、大館地方は秋田氏の直轄となり、鳥潟右京介ら数人が花岡の地に知行を賜っている。