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秋田県八峰町八森字本館

2013/06/08取材

 

日本海に面した、比高約20mの海岸段丘上に築かれた、根小屋式の城館。津軽に繋がる大間越街道を見下ろす要衝に位置している。

東西約200m、南北約250mほどで、丘陵の突端部に築かれた主郭を中心に、南側に不規則な段郭群を敷設した構造になっている。主郭の規模は東西約60m、南北約70mほどで、北端部分には櫓台と思われる土壇が築かれている。

築城時期、築城主ともに詳細は不明だが、永正年間(1504~21)、工藤小平祐定が八森不動山東に居住していたと伝えられる。

天正10年(1582)、檜山城主安東愛季は、津軽方面の押さえとしてこの本館を取り立て、その後 慶長元年(1596)、愛季の嫡子実季は、甲斐武田氏の一族武田重左衛門を取り立て配置し、八森一体を治めさせた。

武田重左衛門は、天正11年(1583)、天目山の戦いで敗れた武田一族で、福浦村(能代市桧山)に流れ着き、安東氏の重臣の大高相模守の知遇を得て、本館城を与えられたもの。

しかし慶長6年(1601)、安東氏は常陸国宍戸に移封になり、重左衛門ら一族はこれに同道せず、この地で帰農した。安東氏に代わり秋田には佐竹氏が入り、検地を執り行い年貢等の使役を増やしたこと等から、慶長10年(1605)百姓一揆が勃発した。

この一揆で、病床にあった城主の武田重左衛門は切腹、27歳の若者の大力であった半三郎は抵抗するも打ち取られ、武田の妻は2児を八森湯沢に逃がしたあと自害したとされる。

この本館城落城については記録がほとんどなく、伝承に残るだけだが、武田氏が一揆方として戦ったのか、あるいは一揆方にせめられたのかも定かではない。

この翌年の5月には、この八森にのみ雪が降り、秋には悪疫が流行したため、武田氏一族の霊を鎮めるため八幡神社を造立した。また毎年たいまつをかざした慰霊祭が行われている。

逃げ延びた武田氏の遺児の次男亀千代と三男鶴千代は、後に津軽氏の家臣として知行800石で召し抱えられたという。