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秋田県湯沢市三又高村

2016/07/29取材

 

三又城は皆瀬川沿いの比高約15mほどの独立丘陵に築かれている。城域は推定で、東西約100m、南北約250mほどで、南北に2つの郭が配され、空堀で区画されている。南側が主郭と思われ、東西約70m、南北約170m、北側が東西約50m、南北約50mほどである。主郭の北側には土塁が見られ、虎口が設けられている。城域の西、南、南東側は高さ約15mほどの断崖になっているが、北東から東、北側は緩斜面になっており、要害性は低い。現在は三又神社の境内になっている。

南北朝期の貞治年間(1362~68)頃に築城され、小笠原信濃守義冬が居住していたと思われる。義冬は北朝方で、出羽の南朝勢力に対するためこの地に下向したと思われ、三又城はその初期の城で、その後同じ貞治年間に、増田城を築いて居を移している。その後は小笠原氏の支城として、一族が入ったと考えられる。

永享年間(1429~41)、光冬の代に小笠原氏は小野寺氏との抗争に敗れ、仙北郡楢岡への退去を余儀なくされ、その後は小野寺氏の支配するところとなった。

その後、関ヶ原の戦いの際、小野寺氏はそれまでの最上氏との確執から東軍の最上義光を攻め、戦後、徳川家康によって改易され小野寺氏は没落し、最上氏の支配下となった。