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秋田県横手市大森町八沢木木ノ根坂

2016/07/28取材

 

この神楽殿は、波宇志別神社の神楽殿で、本殿はこの地の西方約4kmの保呂羽山山頂にある。

建立年代は室町時代の末ごろと考えられるが、太い柱や巨大な舟肘木や桁な ど、簡素で雄大な構造は古代建築の風格がある。形式は両流造という珍しいもの で、木材は主に杉を用いており、内部の柱は直径52センチメートルもある。

屋根は杉の手割り板を用いたこけら葺である。内部は背面寄りを三室に間仕切り、桃山時代初めの天正12年(1584)の墨書のある大規模な厨子を備えている。この厨子の壁板は鎌倉時代初めに製材された杉材を用いており、前身の建物の木材を再用したことが考えられる。軒から上方と側面の妻飾りの破風や懸魚は江戸時代初めの寛永14年(1637)修理時の形式となっている。

神社は奈良時代からの由緒を持っており、神楽殿も平安時代の趣を持っており、使用材も鎌倉時代のものであるなど、神楽殿自体も数々の歴史的経過を秘めていると思われる。

平成2年(1990)から4年にかけて解体修理、復元された。

保呂羽山波宇志別神社は、天平宝宇元年(757)、神主の大友吉親が、大和吉野の蔵王権現を勧請し、 金峰と称したのが始まりと伝えられる。延喜式神明帳に記載される県内屈指の古社である。本殿はここか ら4kmほど西方の標高438mの保呂羽山の山頂に鎮座する。祭神は安閑天皇で、天日鷲命も主祭神とされるが、保呂羽山信仰は、地主神が猛禽信仰と結合して成り立ったもので、神の使いは山鳥らしく、鷲の名を冠した天日鷲命が古くからの祭神だと思われる。

代々、大伴氏の末裔とされる大友家が祭祀を行っており、中世には修験道の霊地として周囲より崇敬を集めていた。佐竹氏が秋田へ転封してきた頃、当主が幼かったため、 神楽役として歌舞神事を担当していた守屋家が神事を行うようになった。しかしそれ以降、大友家と守屋家は争うようになり、両家によって祭祀が続けられた。嘉永6年(1853)、正月の神事の際に出火し、守屋家に参籠していた信者が大勢焼死した事件により、これ以降は大友家が祭祀を行っている。

大伴氏は古代氏族で、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。しかし奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関わり、一族から多数の処罰者を出し、徐々に勢力が衰えていった。神亀6年(729)に発生した長屋王の変では、長屋王と親しかった大伴旅人が大宰府に左遷された。また、波宇志別神社が勧請された年の天平宝宇元年(757)には橘奈良麻呂の乱があり、大伴古麻呂が獄死、大伴古慈悲は流罪となっている。

この 波宇志別神社の勧請に、これらの事件が関わっているのかもしれない。