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秋田市楢山字石塚谷地

2016/07/27取材

 

旧黒沢家住宅は、かつての上級武家屋敷で、現在の秋田市中通三丁目にあったものを、市制100周年の平成元年()、現在地に移築復元したもので、国指定重要文化財に指定されている。

秋田市は久保田藩主佐竹氏のお膝元として発展した城下町で、現在の千秋公園の地に久保田城を築城し、城の周囲には整然とした町並みの城下町が形成された。市中央を流れる旭川を挟み、城のある東側を武家地、西側を町人地とし、南側と西の外縁に足軽町や寺町を配して城下の防御にあたらせた。

内郭には藩主や側近等の「侍屋敷」地区が作られ、その南側の三の郭、四の郭には上・中級武士の住む「侍町」が作られ、城の正面の守りとされた。これらの武家屋敷は現在は殆どが失われ、三の郭に遺されていた「黒澤家」が唯一の遺構だった。

当時の黒沢家の敷地内には幾本もの大木が生い茂り、鬱蒼とした森の様相で典型的な屋敷林だった。果実が多く植えられており、季節ごとに梅、梨、栗などが実り、紅葉の時期も美しい景色が見られた。

黒澤氏は、秋田中部の平鹿、雄勝地方の戦国大名小野寺家の家臣だった。しかし小野寺氏は関ヶ原の戦いの際に、東軍の最上氏と対立し失脚、流刑となり、黒沢氏は主を失った。その後佐竹氏が秋田に入城すると取り立てられ、幕末まで仕えた。

江戸時代には、藩士の住宅は藩の所有物であり、藩士の身分、石高に応じてあてがわれていた。そのため藩の都合や藩士の身分の変化により居住者は度々変わった。この屋敷も、黒澤氏が入るまでは、芳賀家、赤田家、吉成家、平井家と変わっている。黒沢氏は文政の頃には、石高五百石、山奉行、寺社奉行の要職を務め、文政12年(1,829)から居住した。黒沢家では屋敷を修繕、改築して暮らしていたようだ。

道路に面して長屋門形式の表門を構え、庭をへだてて奥に主屋が建ち、主屋の背後に土蔵、米蔵、木小屋などが建つ。また敷地の東北隅に氏神堂があって、屋敷構えがよく整っている。主屋と表門は18世紀前半の建築とみられるが附属屋は黒澤氏がこの屋敷に移ってから建てられた。

主屋は表側に玄関をもつ書院と、その背後に接続する台所から構成されており、屋根は柿葺きの切妻造りで、上級武士住宅の形式をよくあらわしている。現存する武士住宅としては建築年代が古く、上質であり、附属屋をふくめて屋敷構え全体がそろっている点は特に貴重である。屋根は柿葺きの切妻造りで、畳3畳が付いた式台があり、その格式の高さを見せている。

主屋の書院は、式台が連なる接客用の空間で、床の間は装飾の少ないシンプルな意匠だが、木割の細い端正な造りで、質素ながら品の良い空間となっている。この座敷のすぐ裏は7畳の仏間であり、炉も切られ、居間としても使われていた。この部屋の天井は低く、天井裏には隠し部屋があり、いざという時は梯子を降ろして妻子を隠す為のものだったと云う。

書院から雁行型で小座が繋がり、外観は屋根が柿葺きの切妻造りで、内部は8畳の茶室である。小座の奥は台所棟で、背面は土蔵になっている。風呂はかぶり湯の為に浴槽は無く、排水溝が中央に設けられている。