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秋田県秋田市新屋日吉町

2016/07/27取材

 

葉隠墓苑とは、戊辰戦争の際に新政府側に着いた秋田で戦った佐賀藩兵の墓である。

秋田久保田藩は奥羽越列藩同盟に調印したものの、勤皇派と同盟派に藩論は割れていた。そのような中、新政府の奥羽鎮撫隊総督が仙台から秋田に入り、領内には、薩摩藩、長州藩、佐賀藩などの新政府軍が入ってきた。そのような中で、久保田藩主佐竹義堯は同盟離脱を決定し、仙台藩使節11名を殺害し、久保田城下に首をさらした。このことで秋田久保田藩は同盟側からの恨みをかい、秋田戦争が始まった。

列藩同盟軍は、東からは南部藩が、南からは庄内藩と仙台藩が藩領内に攻め込み、秋田久保田藩は秋田城下の近くまで押し込まれた。これに対して秋田久保田藩は城下南端の大森山を最後の防衛線とし、頂上に佐賀藩の砲台場が備えら、南山麓の下浜長浜に秋田藩兵と佐賀藩兵が配された。

旧暦9月12日、この下浜長浜で、庄内藩・出羽松山藩の同盟軍と、秋田藩と佐賀藩の新政府軍が戦い、秋田藩士11名、佐賀藩士6名が戦死し、同盟側は7人の戦死者を出した。列藩同盟軍は秋田城下進出を伺ったが、このときすでに列藩同盟側の敗色は濃く、9月4日、米沢藩が降伏し、10日には仙台藩が降伏、22日には会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も秋田久保田領内から一斉に退却し、24日に降伏し、秋田城下が戦火にまみれることはなかった。

この一連の戦いで戦死した佐賀藩士の馬渡栄助、軍夫の兵蔵、平兵衛は村人によって丁重に葬られ墓石が建てられ、その手前には小さな地蔵様が立てられた。しかし戦後の農地解放でこの墓地は無縁墓地となり次第に忘れ去られ荒廃し、その後移転されることになった。この移転の際に、墓地の風化した三基の墓石が戊辰戦争で亡くなった佐賀藩士の墓だとわかり話題になり、遺族探しが行われた。

昭和61年(1986)、佐賀県から子孫の方々を迎え、当地で戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊祭を開催し、南国の佐賀からこの北国の秋田へ来て、艱難辛苦の末に秋田でなくなった佐賀藩士の慰霊碑が建立された。