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秋田県秋田市新屋栗田町

2016/07/27取材

 

栗田神社は、砂防事業に一身を捧げた栗田定之丞の功績を称え、文政11年(1828)に祀られたもの。ついで安政4年(1857)、藩より許され、特に一社を建て栗田大明神と称した。現在の社殿は、昭和10年(1935)に建てられたものである。

栗田定之丞は明和4年(1767)、久保田城下の下級武士、高橋内蔵右衛門の三男として生まれた。幼名は仁助といった。安永9年(1780)、仁助14歳の時に栗田家の養子となり、後に定之丞如茂(ゆきしげ)と名乗った。定之丞は次第に頭角をあらわし、17歳で郡奉行配下の吟味役、後に藩の財政管理・会計事務の補助職員から正職員となった。しかし25歳の時に病を得て、職を退いた。

当時、異国船の出没が相次ぎ、秋田藩周辺にもロシア船が来航していた。幕府は海防の必要性から、海岸をもつ諸藩に警備の万全を期すよう命じ、秋田藩は、秋田市浜田の海岸に見張番所をたてた。病が回復した定之丞は、寛政8年(1796)、外国船警備の役に付き、海岸を眺望する小高い丘の上の番所に詰める内に、外国船は見なかったものの、飛砂の恐ろしさを目の当たりにした。

翌年、定之丞は林取立役を命ぜられ、物書兼砂留役を兼任することになった。任地は秋田藩北部の山本郡だった。砂防柵を作りクロマツを植えても、一冬も立たないうちに砂に埋もれてしまった。砂留め工事には、多くの人手を必要とするが、藩の財政は苦しく、人夫賃は一切出なかった。

定之丞は、砂留めに詳しい各村の肝煎りらからこれまでの体験を聞き取りし、さらに、北は八森から南は芦崎村まで、南北28kmを海岸伝いに歩き、土地の人々の話を聞き、さらに砂丘に掘立小屋を建てて、砂防林の植栽研究に没頭した。砂の動きを知るために、寒中ムシロをかぶって砂丘に寝るほどの熱心さだった。そしてついに合理的な植林方法の「塞向法」を考案した。それは、最初に古草履やワラ、カヤを束にして砂に半ば埋め、その陰に柳を植える。翌年に活着すると、グミの木とハマナスを植える。その次の年は風下にネムを植え、これが根付くと初めてその風下に松苗を植えるというものだった。

定之丞は集落をまわり説得を重ね、自ら植栽現場に立ち砂留め植林を進めていった。しかし人夫はただ働きで、かり出される村人の不満は大きかった。「ただで働いてくれ」と頼むので、定之丞をもじって「タダ之丞」と呼ばれ、あるいは、駄々をこねるようにしつこく頼むことから「ダダ之丞」とも呼ばれていた。しかしそれでもその熱心さに負けて渋々従った。

しかし数年後、植物が根付き、点から線となって勢いづき、砂の上にも植物が生えることを藩も農民も知ることとなり、藩はその功を讃え定之丞に二十石の加増を与えた。窮乏していた藩財政の中で、わずかではあるがこの加増は奇跡的なものだった。農民も、飛砂の被害が軽減することで、タダ働きにやっと納得した。

山本郡が終わると、この新屋村でも砂留め工事が始まった。新屋村はもともと山林もあり製塩が盛んに行われていた。この製塩に焚く薪の乱伐で海に近い地区は砂山と化していた。季節風が吹き荒れる冬を越すと、田畑ばかりか家まで砂に埋まり、かつて千軒あった村が半減するほどだったと云う。

新屋村ではこれまでもグミの木を植林していたが、その1割程度しか根付かず、定之丞の黒松を主とした植林には懐疑的で、計画に強く反対した。しかし定之丞の計画は山本郡での実績があり、彼は強硬に計画を貫き、(1814)大事業を完成させた。その後も新屋村北部「勝平山」一帯の砂防林は、栗田方式を継承し1822年に始まり、文政10年(1827)定之丞は没したが、その遺志は受け継がれ5年後の天保3年(1832)に完成した。

新屋村の肝煎の記録によると「草木もよく育ち、燃料の柴や山カヤも近いうちに刈り取れる。ことグミの実は8月から10月まで村の小さな家々の女房子供の収穫物となり、村中一日50人平均、城下にグミ売りをし、一斗から一斗五升ぐらいをさばき、一升二十文として十貫文になり・・・」とある。

定之丞は結局その生涯で、現在の能代市から秋田市までの120kmにわたる砂丘地一帯に植樹し、田畑や家屋が砂に埋められることのない黒松の砂防林を完成させた。それ以降も栗田方式の植林法は受け継がれ、黒松がうえられ、江戸末期には数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸をまもった。