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秋田県仙北市田沢湖田沢字春山

2016/09/24取材

 

文化年間(1804~18)秋田藩九代藩主佐竹義和は、この地玉川の小和瀬野に御野馬牧場を開設し、その増殖を図っていたが、天保の大凶作に際し、窮民救済のため御野馬はことごとく売り払われるに至った。

天保5年(1834)、郡奉行の会田久左衛門は田沢の親郷肝煎、堀川小太郎に御野馬の再興を命じた。小太郎は意を決し、当時すでに馬産の先進地だった隣国の南部に入国し、苦心の末「大岩乗」という牝馬と良牝馬二頭を得て帰国、郡内各所から集めた良馬七頭、それに後に南部から求めた「小牧」という牝馬を中心に御野馬の再興を図った。

その後の文久元年(1861)陸奥七戸の産で、尾の中に白毛の混じった青毛牝馬を南部沼宮内の馬商から買い求め、これを「尾白」と名付け、種蓄として繁殖を図ったところ、良駒が続々と産出され、後年「田沢馬」の名声を得る基礎となった。

「尾白」はその昔、宇治川の先陣で名高い、佐々木四郎の乗馬「池月」の系統を引くといわれ、馬産家らはその死を大いに惜しみ、白浜原頭に亡骸を葬り「蒼前」として祀ったと云う。