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秋田県男鹿市船川港船川字鳥屋場

震災前取材

 

大龍寺は、永禄年中(1558~70)に密教寺院として開創されたのがはじまりと伝えられる。しかしその後衰退したが、男鹿の女川を本拠としてこの地を支配した安倍基季が、天正5年(1577)に台巌俊鏡を開山として曹洞宗寺院として改め安倍氏の菩提所とした。

安倍基季は龍神信仰の篤い人だった。そのためか、大龍寺には次のような伝説が伝えられる。

昔、大竜寺の俊鏡和尚の元に、夜毎に美女が現れるようになった。俊鏡が座禅をしていると、穏やかな海から微かな波の音が聞こえ、潮風にのって本堂の中に蛍が迷い込んできた。蛍は弧を描き外へ去っていった。ふと気がつくと、 いつのまにか、本堂の隅に髪の長い美しい女が座っている。そして俊鏡が座禅を終えると、静かに立ち上がり帰っていった。

次の日も、その次の日も同じことが続いた。女が座っていたあとはわずかに濡れて、砂粒が落ち月明かりに光っていた。 不思議に思った俊鏡は、女がくる頃に外を眺めていると、穏やかな薄暗い海のかなたに赤い火が現れ、静かに近づいてきた。赤い提灯をもった女が、海の上を僅かな風に乗り歩いてきた。

俊鏡は、己をたぶらかす魔性の化身かと疑い、女が入ってきたときに「諸行無常・・・喝ーッ」と気合をかけた。すると女は泣きながら、「わたしは海に住む竜神です。こうして女子となる五衰三熱の苦悩から逃れたいために八夜通い続け、菩薩戒と血脈を授かりました」と云い、俊鏡に得度を願った。

俊鏡は女の願いを叶え女を得度させると、女はその美しい髪を俊鏡に捧げ、龍の姿になり海のかなたに消えていった。和尚はこの頭髪で払子をつくり、それは今もこの寺の寺宝として伝えられる。

後年、日照りが続き、大飢饉に見舞われそうになったときに、その当時の住職が海に舟を浮かべ、この払子を用いて雨乞いをしたところ、たちどころに雨が降り出し、男鹿の人々は飢饉から救われたという。

しかし安倍基季は、脇本城主の安東愛季により滅ぼされ、大龍寺は女川から脇本城の近くに移り安東氏の祈願所となった。

江戸時代には、竜神伝説のゆえか、海上の安全、庶民の幸福と繁栄を願う男鹿の霊場として崇敬されたようで、紀行家の菅江真澄は、文化元年(1804)大龍寺を訪れ、「男鹿の秋風」の中で竜毛の払子について記述している。

昭和7年(1932)、旧澤木家の別荘地であった景勝の地の現在地に移った。境内に密教寺院時代の名残である約800年前の五輪塔が残っている。近年、浄土式日本庭園や多宝塔様式の龍王殿などが整備され、一般にも公開されており、この地からの船川湾の眺めは絶景である。