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秋田県仙北市西木町西明寺字小山田

2016/04/05取材

 

東側を流れる檜木内川と南側を流れる高野川が合流する比高約20mの地点に位置している。高い切岸と空堀で仕切られた多郭式の城館である。城域は東西約250m、南北約350mで、主郭、西郭、中郭、北郭などの郭によって構成される。

主郭は南東部に置かれ、東西約110m、南北約80mほどで、主郭の西側には空堀を隔てて西館が配され、これらの北側に中郭、北郭などの郭が配されている。各郭は規模の大きい平場になっており、各郭ともに西側に土塁が築かれている。各郭を区画する空堀のうち特に主郭、西郭間の堀の規模が大きく、幅約15m、深さ約8mほどある。

門屋城はかつて安倍頼時の六男である北浦六郎重任の居城であったとされる。重任は康平5年(1062)に厨川合戦において討死した。

承久2年(1220)、戸沢氏二代平九郎兼盛が北浦の地へ移ったが、安貞2年(1228)に門屋城を修築して居城とした。戸沢氏はもとは陸奥滴石荘戸沢を支配していた開発領主で、奥州藤原氏に従っていたと思われる。奥州藤原氏の滅亡後、陸奥には鎌倉御家人が入り戸沢氏は圧迫され、各所に拠点を移しながら、この地に入ったと思われる。以降は十三代家盛が応永年間(1394~1427)頃に小松山城(後の角館城)へ移るまで、戸沢氏の居城として機能した。

角館転封後は、門屋城には戸沢氏の一族、家臣が入城して檜木内川中流域を統治し、戦国期には戸沢家盛の曾孫である宮内大輔頼盛が居城とし、天正15年(1587)の阿気野合戦、同年の唐松野合戦、翌・天正16年(1588)の峰ノ山合戦などに参加した。天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により、戸沢三十五城の一つとして破却された。

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