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秋田県大仙市中仙長野

2016/04/05取材

 

八乙女城は、玉川と斉内川との合流点の西側の半島状に突き出した比高約70mの丘陵上に築かれている。現在は八乙女公園として整備されている。

城は、丘陵東側の頂部を主郭とし、西側尾根鞍部に二の郭、頂部に三の郭を配した連郭式の城である。城域は、東西約500m、南北約150mほどで、北側、南側は急峻な断崖で守られ、緩斜面部には段郭が配置されており、玉川を自然の濠として外郭ラインを形成している。主郭の南北斜面にはそれぞれ数段の段郭が配され、二の郭、三の郭間は堀切で分断され、三の郭は独立性が高い。主郭からは仙北平野を一望に見渡すことができる。

11世紀初期に、安倍氏が防衛線の一つとして築いた古代城柵がその始まりとされる。城跡には「見張石」「手投石」「延命水」などのほか、前九年の役にまつわる、源義家軍との攻防の様子が伝説として残されている。

戦国期には角館城主戸沢氏の重臣の八乙女氏が居城していた戸沢35城のひとつとされる。この城は戸沢氏の小野寺氏に対する重要な抑えの城だったと考えられる。文禄2年(1593)に城主八乙女河内が討死したと伝えられるが、これも小野寺氏との争乱と考えられる。

戸沢氏は関ヶ原の戦いでは東軍についたが、その戦いが消極的だったとし、常陸松岡へ減転封になり、その後出羽新庄に移封された。西軍に加担した小野寺氏は改易された。