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秋田県美郷町本堂城回字館間

2015/09/15取材

 

この城は、戦国期にこの地一帯を治めた本堂氏の居館である。

城は斉無川の南岸に築かれており、やや南北に長い方形の平城である。城は内館を囲む内堀と土塁、外館を囲む外堀などから構成され、内館の北東部分には高さ約4mの土塁の一部が残っている。内館の規模は、内堀部分も含め、東西約170m、南北約190m、中心部からは主殿と考えられる建物跡が見つかっている。周囲を取り巻く内堀の幅は約10m程あり、北を除く三方に虎口を開き、南が大手口である。また東から南側の水田下に、外堀の一部が確認されている。

現在も内堀内部は良い状態で残っており、北東隅に大土塁が残っている。高さは約4mあり、内館の周囲を巡っていたと思われる。北東隅部には鬼門除けの祠が残っている。

本堂氏は陸奥和賀郡を支配していた和賀氏の一族と考えられ、観応年間(1350~1352)にこの地に進出し、和賀家から独立して本堂の姓を名乗るようになった。本堂氏は初めは山城の元本堂城に拠ったが、天文4年(1535)にこの平城の本堂城に移り、江戸期に常陸に国替えとなるまで本拠とした。

戦国期の本堂氏は、戸沢氏や小野寺氏の大勢力に挟まれ、微妙な立場にあった。義親は戸沢氏と戦い鴬野で戦死、頼親は金沢城主と戦い野口で戦死、朝親も波岡で戦死している。

天正年間(1573~92)の当主は本堂忠親で、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、藤田信吉の検地に協力して約9千石を領した。忠親の跡を継いだ茂親は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、慶長7(1602)年、戦後常陸国志筑に8千5百石を給され転封し、江戸幕府の交代寄合として明治まで続いた