スポンサーリンク

秋田県大仙市大曲丸の内町

2015/09/15取材

 

大曲城は丸子川と雄物川が合流する丸子橋の北岸一帯の微高地に築かれた平城だが、現在は城跡の殆どが市街地化され、遺構を確認することは難しい。僅かに八幡神社の参道が土塁の一部として残っており、土塁は高さ5mほどある。

大曲城の創建は明らかではないが、安倍氏滅亡後、残された安倍氏の一族が築城したという説がある。

長禄2年(1458)から文明2年(1470)頃には、三戸南部氏が仙北に侵攻し、三戸南部氏十三代守行は、三男の彦四郎を金沢城に置き、彦四郎は金沢右京亮と名乗ち山本郡を支配した。大曲には右京亮の家臣の米内甚五郎が大曲和泉守を名乗り在城した。しかし応仁2年(1468)、南部氏は小野寺氏との戦いに敗れ右京亮は討死にし、大曲和泉守は右京亮の若君を抱いて南部地方に逃れたという。

その後、明応年間(1492~1501)頃は、小野寺氏に近い、独立勢力前田氏が在城していたが、天文元年(1532)、前田又左衛門通信は、由利十二頭赤尾津、羽川氏との合戦で討死にした。家督は次男の薩摩守利信が継ぎ大曲城主となった。その後天文年間(1532~55年)、利信は大曲に侵入した角館城主戸沢氏の有力与力に組み込まれた。天正7年(1579)、 利信は戸沢盛重の名代として織田信長に拝謁している。

しかし天正10年(1582)、大曲城はまたも赤尾津、羽川勢の急襲を受けて落城し、利信は弟の神宮寺館主神宮寺掃部を頼り落ち延びたと伝えられる。天正18年(1590)、大曲城は「戸沢領内三十五ヶ城」のひとつとして数えられ廃城となった。関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)、佐竹義宣が出羽に入封すると、大曲城は再興されて梶原美濃守政景に預けられた。しかしそれも元和元年(1615)の「一国一城令」により破却された。