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秋田県大仙市南外楢岡

2015/09/15取材

 

別名:上ヶ土城

楢岡城は、愛宕山の一角の比高約40mの古城山にある。この地は、楢岡川が雄物川に合流する流入口に位置しており、また雄物川舟運を扼する位置にあり、城の背後は由利郡と境を画す出羽兵稜に続いている。城の前面の楢岡川と雄物川を天然の外堀とし、丘陵基部を大規模な堀で断ち切り城域を区画している。城域は、東西約250m、南北約350mほどで、南北に大きく3郭が配され、それぞれを空堀で区画し、北から主郭、二の郭、三の郭の連郭式城館である。

伝承によれば室町時代まで佐原太郎時連の城であったとされる。佐原氏の出自は不明だが、葦名氏の祖の佐原氏と同様に、相模の三浦一族とも考えられる。しかし長禄2年(1456)、佐原氏は増田城主小笠原光冬に滅ぼされ、翌年光冬は楢岡城に入城して以後、楢岡氏を称した。

当時、南部氏が奥羽山脈を越えて仙北郡に侵攻し、稲庭城の小野寺氏や湊安東氏と対峙しており、南部方だった小笠原氏は、小野寺氏に圧迫されてこの楢岡に拠点を移したと思われる。しかし小野寺泰道が南部勢力を仙北郡から駆逐し勢力を拡大すると、楢岡氏(小笠原氏)は、この地でも小野寺氏と対峙することになり、を余儀なくされ、楢岡光冬のあとを継いだ長倫は、角館城の戸沢寿盛と誼を通じ、戸沢氏の三子を養子に迎え、戸沢氏を後ろ盾とした。

また大永年間(1521~27)の楢岡左馬介清長の時には、娘を戸沢秀盛の正室として嫁がせ、同盟関係を強固なものとしり、秀盛の嫡子道盛の外戚として戸沢家中での発言権を拡大させた。

亨禄2年(1529)、秀盛が死去すると、秀盛の弟の忠盛は、道盛の後見役として角館城に入り、戸沢家の家督奪取を企てた。このため戸沢家中は内訌状態になり、清長は天文元年(1532)、六郷氏、本堂氏、白岩氏等の有力国人を纏め上げ、忠盛を退去させた。

その後も楢岡氏は戸沢氏の有力与力として行動をともにし、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)、戸沢政盛の常陸転封の際、楢岡氏もそれに従い城は破却されたと考えられる。