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秋田県美郷町六郷

2013/08/19取材

 

永泉寺は、文和年間(1352~1356)の創建と伝えられている。中世にはこの地域を支配していた二階堂氏(六郷氏)の菩提寺となり庇護された。

二階堂氏の宗家は、現在の福島県須賀川市にその拠点を置いたが、この地にも所領を得、庶流が土着したと考えられる。その時期は定かではないが、南北朝期の末期にいたり、この地の地頭職を受け継ぎ入部したとも思われる(異説あり)。

その後、戦国末期に、二階堂道行が涅槃像を寄進した記録があり、この時期には永泉寺は二階堂氏(六郷氏)とは密接な関係にあったと考えられる。この道行の時代に 二階堂氏は六郷とその姓を変えた。

この時期の六郷氏は、北に角館の戸沢氏、南には横手の小野寺氏と強国に挟まれていたが、周辺の在地領主らと共に独立を維持しながら、それらの大勢力につかず離れずの行動をとり独立を維持した。

天正18年(1590)、道行の子の六郷政乗は、豊臣秀吉の「小田原攻め」に参陣し、この地に4500石の所領を安堵され独立領主となった。さらに慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦」では日和見を決め込んでいたが、関ヶ原で東軍が勝利を治めたことを知ると、東軍側の最上氏と対峙していた小野寺氏を積極的に攻撃し、その功により戦後常陸府中に一万石を得てこの地を離れた。その後も大阪の陣に参陣し、その功により2万400石に加増され、由利本荘市に移った。

六郷氏がこの地を去った後に、この地の近くの六郷城には、佐竹義宣の父の義重が入り、義重は城下を整備し、永泉寺は防御的にも重要な要地にあたり木戸が置かれた。一国一城令で六郷城は廃されたが、六郷は羽州街道や生保内街道などの宿場町として重要視された。