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秋田県美郷町六郷

2013/08/19取材

 

六郷城は、仙北平野の南東部、六郷地区西側の微高地に位置する平城である。現在は主郭に稲荷社が祀られているが、往時は主郭を中心に南東側に二の郭を配し内濠、外濠で囲まれていた。

六郷城は、永禄年間(1558~69)、六郷道行が築いたとされる。六郷氏は鎌倉期にこの地の地頭職として入部した二階堂氏の庶流で六郷氏を称し、仙北平野南東部を支配下に置いた。

戦国期には、北に角館の戸沢氏、南には横手の小野寺氏と強国に挟まれていたが、小野寺氏は南の最上氏と、戸沢氏は北の安東氏と対立しており、周辺の在地領主らと共に、独立を維持しながら、それらの大勢力につかず離れずの行動をとったようだ。天正14年(1586)には小野寺軍に参陣し最上領に侵攻し「有屋峠の戦」を戦い、また同17年(1589)年には「湊騒動」で檜山安東実季に味方し出陣し、この間に小野寺氏と戦っている。

天正18年(1590)、道行の子の六郷政乗は、豊臣秀吉の「小田原攻め」に参陣し、この地に4500石の所領を安堵され、豊臣政権下で独立領主となった。慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦」では、日和見を決め込んでいたが、関ヶ原で東軍が勝利を治めたことを知ると、東軍側の最上氏と対峙していた小野寺氏を積極的に攻撃し、その功により戦後常陸府中に一万石を得てこの地を離れた。

慶長7年(1602)に佐竹義宣が秋田に入封すると、義宣の父義重が入城した。翌年の慶長8年(1603)には、小野寺氏の旧家臣ら1000人余がこの城を攻めたが、義重は領民や一向宗の僧侶らとともに城に篭りこれを撃退した。その後義重は、城下町を整備し城下の東縁に領内26ケ寺を集約し、有事の際の砦としたが、その後の一国一城令により廃城となった。