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秋田県湯沢市皆瀬子安

震災前取材

 

現在小安峡温泉のある地は、古くから陸奥と出羽を結ぶ交通の要衝にあたり、小安口と呼ばれ、明治の初めまで番所が置かれていた。

小安口からは、現在の宮城県栗原市花山の寒湯温泉を経由する花山越と、栗原市栗駒町を経由する文字越の二つの街道があり、花山越は現在の国道398号線にあたり、宮城県の石巻や三陸にも通じることから、海産物の交易が盛んで、地元では「ほや街道」とも呼ばれた。

小安御番所は、天和元年(1681)に設置され、文化10年(1813)この地に移された。明治2年(1869)、明治新政府によって廃止されるまで、仙台藩、秋田藩の国境の警備を行っていた。

前九年の役の折には、鎮守府将軍源頼義の依頼により、出羽の清原勢が文字越を往来し、後三年の役の折には、数千の軍馬を率いた源義家が小安口を越えて戦った。

また時代が下り、戊辰戦争の際には、奥羽列藩同盟の軍は、西軍側の拠点となった秋田藩を攻略するため、慶応4年(1868)7月末、院内口から湯沢への侵攻を皮切りに、この小安口からも仙台勢1千人が横手に侵攻、途中庄内勢と合流し、県南を攻略し秋田久保田城に迫った。

しかし、東北各地の同盟諸藩の降伏により撤退を余儀なくされ、9月19日仙台勢3千は小安口を越えて仙台領へ撤退した。