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秋田県能代市柳町

震災前取材

斉明天皇4年(658)、越の国の国司の阿倍比羅夫が、秋田、能代両郡の蝦夷降伏の八幡と号し、中嶋の地に鎮座したのが始まりと伝える。

比羅夫は降伏した蝦夷の長を、渟代(能代)、津軽二郡の長に定めた。翌年には、一ヶ所に飽田(秋田)、渟代(能代)二郡の蝦夷、また津軽と胆振の蝦夷を集めて饗応し禄を与えた。

さらに水軍180隻を率い渡島(北海道)に渡り、後方羊蹄(しりべし)に郡領を置き 、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎と戦いこれを破った。

その後、延暦年間(797~805)、北奥羽では蝦夷の反乱が頻発し、大和朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍として東夷征討を命じた。延暦22年(804)頃には蝦夷の反乱も一段落し、田村麻呂はこの地で御旗を納めて戦功を報賽したと伝えられる。

八幡社は何度か遷座したが、江戸時代には秋田久保田藩主佐竹氏歴代の崇敬を集め、元禄7年(1694)、現在地に遷座し、本殿、拝殿が造営された。