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秋田県湯沢市稲庭町

震災前取材

 

稲庭城は雄物川の支流皆瀬川右岸の南西側に延びた比高約180mの尾根頂部を本郭とし、二の郭、主郭、郭群からなる典型的な中世山城である。

東、西、北側は急斜面で、大手口の西麓から二の郭間は、旧斜面をつずら折れの大手道で繋がれ、途中には段郭が配されている。現在、二の郭跡には三層の模擬天守の「今昔館」があり、そこまでは観光用のスロープカーが運行されている。

二の郭は南北に細長く、南端には櫓台と思われる土段があり、物見櫓などがあったと考えられる。この二の郭の東側のピークが主郭になり、主郭へ向かう尾根道は、その鞍部に三重堀切があり、二の郭と厳重に遮断されている。

築城時期、築城者の詳細は定かではないが、鎌倉時代初期にこの地に下向した小野寺重通が稲庭を本拠と定め、鎌倉中期(1261~75頃)、小野寺経道が山麓に居館を建て、稲庭城を順次拡大整備したものと思われる。

経道は、嫡子忠道を稲庭城に、次男道直を西馬音内城に、三男道定を湯沢城に分知し、次第にその勢力を伸ばしていった。忠道の子道有の頃には雄勝、平鹿、仙北郡の一部にまで支配をのばし、支配する城館の数は470箇所に及んだとされる。戦国初期の泰道の代に沼館城に支配拠点を移すまで、小野寺氏の本拠城として機能したと考えられる。

その後も小野寺領の重要拠点として、小野寺氏一族が城代として入城しこの地を支配していたが、文禄4年(1595)の最上義光の雄勝進攻で稲庭城は攻められ落城した。その後も小野寺氏は最上氏と対立し、関ヶ原の戦いの際にも東軍の最上氏と争い、西軍寄りの行動をとったとされ改易となり、慶長6年(1601)石見へ流された。