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秋田県湯沢市院内銀山町

震災前取材

 

この地には、門屋家四代の墓碑が建っている。

門屋養安は寛政4年(1792)、新庄藩に生まれたが、故あって9歳で一人で秋田藩へ逃れた。秋田で医者に拾われた養安は、御典医を目指して勉学に励み、秋田藩から院内銀山にお抱え医師として派遣された。

養安は、天保6年(1835)から明治2年(1870)までの35年間にわたる克明な日記を残している。養安は医師としてだけではなく、銀山の手代としてその経営にも関わり、また宿屋も経営するなど生涯の大部分を院内銀山ですごし、院内銀山の全てを知りうる立場だった。

養安の日記は、『門屋養安日記』と呼ばれ、銀山の経営から採掘技術、季節の風物詩、風習、衣食住から、銀山で発生した事故、疾患、天災に至るまで事細かに記されており、幕藩体制下の院内銀山を知る貴重な資料となっている。

門屋家は、四代にわたって院内銀山で医師を務め、院内銀山のみならず近村にまで医療活動を行った。秋田は種痘の先進地であったとされ、三代門屋盛信は、銀山の住民に無料で種痘を行ったと伝えられる。

またこの地には、共葬墓地があり、古いものは延享5年(1748)の年号が記されており、およそ3千余柱が葬られている。親分や兄弟分によって埋葬された無名の者も多く、土盛や鉱石そのものを墓誌としたものが数多くある。