秋田県湯沢市内舘山

震災前取材

 

湯沢城は、市役所南東すぐの古舘山を利用して築かれた山城である。現在は、湯沢城址公園として、中央公園から遊歩道などが整備されている。

山頂部には、東西約30m、南北約80mの本郭が置かれ、尾根筋、馬場、五社壇、馬屋、見張台と呼ばれる郭が連なる。更に大堀切を隔てて、東西約40m×南北約20mの二ノ郭が置かれ、この二ノ郭を中心に、北の二つの尾根筋に、それぞれ段郭が配されている。大手口は山麓の細小路から、七曲と呼ばれるつづら折の登道を経て本郭と二ノ郭の間の堀切に通じている。

湯沢城は、鎌倉時代初期、小野寺経道が雄勝郡に入部し稲庭城を居城にし、建治3年(1277)に、三男の小野寺三郎道定に築かせ、雄勝郡支配の南の抑えとした。

天文21年(1552)、小野寺氏十二代稙道のとき、稙道はこの城で家臣らに暗殺され、稙道の子の輝道は羽黒山に逃れ、庄内の大宝寺氏に保護された。その後、大宝寺氏の助勢を受けて、弘治元年(1555)に沼館城に復帰した。

小野寺氏は永禄年間(1558~70)に入り勢力拡大を図り、天正5年(1577)には本拠城を横手に移し、その領域は雄勝郡を中心に、平鹿郡、仙北郡を支配下におさめ、神宮寺、刈和野方面までをその勢力下に入れた。

輝道の子の義道の時代の天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置に対し、小野寺領の仙北郡で一揆が起こった。この一揆は秀吉の命で上杉景勝によって鎮圧されたが、小野寺領の増田とこの湯沢の地は蔵入地として没収され、替わって最上義光が代官に任じられた。

このことから、文禄2年(1593)、最上義光は雄勝郡の領有を主張し侵攻した。鮭延典膳秀綱を先陣とし、この湯沢城まであとわずかまで迫ったが、兵の疲弊もありこの時は兵を引き上げた。しかし文禄4年(1595)、再び最上氏は雄勝郡へ侵攻、楯岡豊前守満茂を総大将とする山形勢、さらに小野寺氏からの降将、由利郡からの援軍など数千の兵で湯沢城を取り囲んだ。

湯沢城の城将は、八柏孫七郎だったが、雄勝郡の諸将が次々と最上勢に降り、本城である横手城からの援軍も無く、孤立無援の中湯沢城は落城した。

その後、湯沢城は楯岡満茂が城主となり、最上氏の城として雄勝、平鹿郡の100余郷を支配した。しかし、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)、この地は常陸から秋田に移った佐竹氏に与えられ、湯沢城は佐竹南家三代義種が城主となった。義種は城を整備し城下町を整え、城の麓に屋敷をかまえた。しかし元和6年(1620)、「一国一城令」により湯沢城は破却された。

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