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秋田県湯沢市内町

震災前取材

 

湯沢は、佐竹氏一族の佐竹南家の城下町である。

佐竹南家は、佐竹氏十七代義舜の子の義里を祖とし、1500年代の初めに分家した。佐竹氏は秋田移封前は、常陸の太田城を本拠とし、太田城のどの方角に住んでいたかで呼び方が決められた。佐竹氏一族には、この他に、壱岐守家、佐竹北家、佐竹東家、佐竹西家がある。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に際して佐竹義宣は、石田三成や会津の上杉景勝とひそかに密約を交していたとされ、結局表面上は旗幟を鮮明にすることはなかった。

慶長7年(1602)春、義宣は家康の命で、大阪の豊臣秀頼に謁するため上洛したが、家康は義宣に対し常陸を没収し、石高不明のまま秋田へ移ることを命じた。

7月には常陸は接収され、9月に義宣は、常陸の旧領に戻ることも許されず、わずか93騎の共連れで、京から直接秋田に入った。義宣たちとは別に、重臣や近臣らも常陸から秋田に移ったが、常陸に土着し帰農したものも多い。

佐竹南家の三代義種は、宗家の義宣とともに太田城で育てられ、義宣とともに元服した。この秋田の転封の際には、先に秋田に入り準備をし義宣を迎え入れたと云う。

義宣は義種の所領を決めるときに、どこがよいかと尋ねたところ、義種は、「最上氏や伊達氏に近く、兵乱があった場合には先陣を切るのに便利である」と答え、湯沢を望んだと云う。