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秋田県横手市雄物川町今宿字高花

震災前取材

 

首塚(こうべつか)神社の社殿のある円形の塚は、平安時代の初め頃、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、蝦夷を討った際の戦死者の首1千余りをこの地に埋葬した塚と伝えられる。

また出羽権守の藤原保則の古噴とも伝えられる。藤原保則は、元慶2年(878)この地に赴任した。この時期、出羽では元慶の乱のさなかであり、秋田城が襲われ官軍が大敗する事件も起きていた。着任した保則は、兵を配して軍事的措置を講じる一方で、それまでの苛政を改め、備蓄米を民に供して蝦夷の懐柔を図った。この懐柔策が功を奏し、反乱は武力を用いることなく終息した。

保則は、寛平7年(895)、死の間際に比叡山に入り、そこで念仏を唱えながら亡くなったとされており、この地の塚に伝えられる保則の伝承は、保則の善政を伝える中で生じたものとも思われる。

その後、平安時代の後期に、この地では後三年の役が起こり、源義家が、合戦で討ち死にした敵味方の首、およそ890をこの地に埋葬し、社殿を建ててその霊を慰めたとも伝えられる。

塚の周辺から出土した人頭形の石を安置したことから、頭痛や学力向上に霊験あらたかな神社として信仰され、その石をさすってお参りすれば、一層の効果があると云われている。