秋田県横手市平鹿町上吉田字吉田

震災前取材

 

明治時代の中期、日本全国に自由民権運動が野火のように広がった。秋田では、士族や地主を中心とした北羽連合会(のちに秋田改進党)と、一般農民を中心とする 秋田立志会(のちに秋田自由党)の二つの民権団体が、活発な活動を続けていた。

秋田立志会は、この地の出身で、民権運動発祥の地の高知に遊学した柴田浅五郎を指導者として、県南の町村に深く浸透し国会開設運動を進め、この地は秋田の自由民権運動の中心となっていた。

柴田は、明治13年(1880)、2645名の会員を代表して上京し、国会開設の請願書を提出し、全国から集まった民権家達と連携した運動を展開した。請願はもとよりこの時期の藩閥政府の容れるものではなく、民権運動は急進的なものとなっていった。

柴田は、帰県後村々を回り活発に活動し勢力を拡大していったが、この立志会の急激な発展に不安をいだき弾圧の機会を狙っていた官憲は、スパイを放って挑発し、一部の立志会員が明治14年(1881)6月、豪農宅を襲撃する事件を起こした。このことで、翌日、柴田ら立志会の幹部は、内乱陰謀の罪で逮捕投獄された。これは後世、秋田事件あるいは、おならし事件と呼ばれるものである。

秋田立志会は、この事件で大きな打撃をうけたが、翌15年、全国的に政党結成の気運が高まる中で、秋田立志会は板垣退助らの自由党と連携をとり秋田自由党を結成した。この時の党員は412人にも達し、全国自由党員数の18.5%を占め、府県単位では全国一だった。

柴田浅五郎は、明治22年(1889)、明治憲法発布の日に大赦を受けて帰宅し、やがて不遇のうちに、明治26年(1893)没した。

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