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秋田県能代市柳町

震災前取材

この地の八幡神社の末社である水門龍神社拝殿は、慶応4年(1868)、奥羽鎮撫副総督の澤為量卿、参謀の大山格之助、隊長の桂太郎(後の内閣総理大臣)、檜山の多賀谷家知らの勤王派の人達が密議をした場所である。

この時期、仙台藩、米沢藩らは、会津藩を赦免するように新政府に働きかけていたが、奥羽鎮撫参謀の世良修三らの会津征討の意思は固く、仙台藩は会津を支持することを決め、奥羽越諸藩に白石会議を呼びかけた。秋田久保田藩もこれに参加し、奥羽越列藩同盟に調印した。

しかし、平田篤胤の生没地である秋田久保田藩は、勤皇派も多く藩論は流動的だった。またこのとき、仙台から総督の九条道孝らが入っており、領内には薩摩藩、長州藩、佐賀藩などの西軍も入っていた。奥羽越列藩同盟の盟主の仙台藩は、久保田藩内の動きを「奇怪千萬なり」と批判し、使者を送り九条総督の仙台への引き上げを申し入れた。

それに対して久保田城内で、勤皇派と同盟派が激しく争い、最終的に久保田藩主佐竹義堯の裁断で、久保田藩は同盟離脱を決定した。そして参謀大山格之助の命令で、仙台藩の使節の志茂又左衛門ら全員を殺害し、久保田城下に首をさらした。この水門龍神社拝殿での密議は、このような状況下で行われたものである。

 

また、次のような伝説も伝えられている。

昔、播磨の船乗りが、能代の遊女とねんごろになった。その遊女は、船出が近くなった頃、一緒に連れて行ってくれと船乗りに頼んだ。困った船乗りは、播磨に連れて行くと言って夜中に誘い出し、ひそかに小舟に乗せて沖に出ると首を絞めて殺してしまった。船乗りは遊女のなきがらを、おもりをつけて米代川の河口に沈めたところ、にわかに大風が吹き荒れ、播磨の船は乗組員もろともに沈没してしまった。

その後も、播磨の船が港に入るたびに変事が起こるので、船乗り達は遊女の怨念をやわらげようと海辺に小さな祠を建てた。しかし嵐のたびに流失するので、この地の中島に以前からあった祠に合祀した。その後も海が荒れたり、水戸口がふさがったりすると、播磨の船のせいだとして播磨船は追い出されたと伝えられる。