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秋田県横手市金沢中野字金洗沢

震災前取材

 

別名:金沢城

金沢柵は、後三年の役に清原家衡が篭ったことで有名であるが、その平安中期から戦国時代後期まで使われた城館跡である。

金沢柵は、比高約100mほどの独立丘陵の山頂部の、十文字に張り出す山稜に築かれていた。周囲は急勾配であるが、山頂部は平坦で結構広い。山頂部はピークが2つあり、現在金沢八幡宮が建つ中央部が二ノ郭で、その北西部が三の郭、南東部のピークが本郭で、北東の尾根に北郭、南西の尾根に西郭が配されている。

本郭は70m×50mほどあり、他の郭もかなり広い。それぞれの郭には堀切があり、特に本郭南東部には5重の堀切や竪堀が見られ、北郭には土塁状の地形や虎口と思われる地形も見られる。本郭と二ノ郭間の鞍部には兵糧倉があったとされ、今でも炭化米が出土するという。その他にも、頂上への途中登城路周辺には、空堀状地形や郭跡と思われるものが無数にある。

後三年の役の際には、この柵は清原家衡の詰の城だったとされる。前九年の役で、源頼義、義家父子側で戦い安倍氏を滅ぼした清原武則の後は、武貞、その嫡子の真衡へと継承されていた。武貞は、前九年の役の後、安倍氏一門で処刑された藤原経清の妻で、滅亡した安倍氏の当主安倍頼時の娘を自らの妻としていた。この女性には、経清との間に生まれた男子がおり、武貞の養子となり清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞とその女性の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。

清原氏を継いだ真衡には嫡男が生まれなかったため、真衡は桓武平氏の流れの海道小太郎を養子に迎え成衡とし、さらに、永保3年(1083)、源頼義の娘を成衡の嫁とした。この成衡の婚礼の際、真衡の館に清原一族の長老である吉彦秀武(きみこひでたけ)が祝いに訪れた。秀武は砂金を頭上に捧げ、甥である真衡のもとに上がったが、真衡は碁に夢中で秀武を無視し続けた。秀武は面目を潰されたとして大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて帰ってしまった。

真衡はこの秀武の行為に激怒し秀武討伐の軍を起こした。秀武は、異母兄にあたる真衡と不仲であった清衡と家衡に密使を送り蜂起を促し、清衡と家衡は秀武に呼応し真衡の館に迫った。これを知った真衡は軍を返したため、清衡と家衡は決戦を避け兵を退いた。

真衡は、再び出羽の秀武を討つために出陣の準備に入った。この時期、源義家が陸奥守を拝命し陸奥に入り、真衡は義家を国府で歓待し、その後出羽に出陣した。清衡と家衡はこれを好機として再び真衡の本拠を攻撃したが、このときは義家が真衡側に加勢し、清衡、家衡連合軍は惨敗し義家に降伏した。

しかし、出羽に向かっていた真衡は、行軍の途中で病を発し急死してしまった。真衡の死を受けて、義家は真衡の所領の奥六郡を、3郡ずつ清衡と家衡に分与する裁定を行った。しかし家衡はこの裁定を不服とし、応徳3年(1086)、清衡の館を攻撃、清衡の妻子一族はすべて殺された。このため、清衡は義家の助力を得て沼柵に篭った家衡を攻撃したが、季節が冬であったこともあり、一旦兵を退いた。

翌年の寛治元年(1087)、家衡は叔父の清原武衡の助力も得て、難攻不落といわれるこの金沢柵に篭った。清衡と義家はこれを攻めたが、なかなか落とすことは出来なかった。このため、清衡と義家の連合軍は、金沢柵を固く包囲し兵糧攻めを行い、その年の12月、糧食の尽きた家衡、武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走、その後、家衡と武衡は捕らえられ斬首された。

この後三年の役は源義家の私戦とされ、義家は陸奥守を解任されこの地を去り、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し、その後平泉藤原氏三代の栄華の基礎を築くことになる。

その後、この金沢柵は、平泉藤原氏のこの地の統治の拠点になっていたと思われるが、詳細は定かではない。

記録によれば、室町時代の長禄2年(1458)には、南部氏の家臣金沢右京亮が入ったとされ、また戦国期には小野寺氏の家臣の金沢権十郎が入り、小野寺氏の本拠の横手城の北を守る城として使われたとされる。

関が原の戦いの際に、小野寺氏が東軍の最上氏と戦ったために西軍と見なされ改易され、この地は佐竹氏の領土となり、佐竹一族の東将監、梶原政景が入ったが、その後一国一城令で廃城となった。