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秋田県横手市増田町増田…増田小学校

2013/08/19取材

 

別名:土肥城、土肥館

増田城は増田市街地の中央部、皆瀬川北岸の平野部に築かれた平城で、現在は増田小学校の校地になっている。主郭は東西200m、南北300mの方形で、水濠をめぐらせた平城である。南側の堀は幅10m、他の三方は6mで、二本杉付近に 当時の土塁の面影を残している。虎口は北、東、南側に設けられ、このうち東虎口が大手と推測される。また主郭は周囲よりも一段高く、外堀や隅櫓もあったと考えられる。

増田城は、貞治年間(1362~67)に、南朝勢力に対する抑えとして室町幕府の命により信濃からこの地に入部し三又城に入り、その後この地に移った小笠原義冬が当地に築城したと伝えられる。またその以前に、応永14年(1325)源頼朝の家臣であり土肥次郎家平の子孫の朝平が築いたとも伝えられる。

15世紀初期、稲庭城を拠点とした小野寺泰道は、平鹿郡への侵入を開始し、同じく仙北郡へ侵攻した南部氏と対峙した。この時、小笠原氏は南部氏に与したため小野寺氏の攻撃を受けて、永享年間(1429~41)小笠原光冬は仙北郡楢岡城への移住を余儀なくされた。小笠原氏退去後、増田城へは小野寺氏の被官土肥頼景が川連大館の亀岡城より入城し、増田城は小野寺氏の平鹿制圧の前線基地となった。

土肥氏は、天正10年(1582)の小野寺義道と由利党との「大沢山合戦」、同12年(1584)の最上氏との「有屋峠合戦」に出陣してる。天正18年(1590)には、増田城は鍋倉四郎らが太閤検地に抵抗して一揆を起こし、2,000人の農民を伴って増田城に籠もったが、一揆軍は奥州仕置軍に鎮圧された。

文禄4年(1594)、山形城主最上義光は、村山楯岡城主楯岡満茂を指揮官として雄勝郡に侵攻し、湯沢城、岩崎城を陥落させ、雄勝郡の中央部を制圧した。この時、土肥道近は最上勢に内応し、岩崎城に攻め寄せた小野寺勢を背後から攻撃した。その後、増田城は最上氏の支配下となり、長瀞内膳進光が城代として入城、慶長7年(1602)の佐竹義宣の秋田入封まで在城した。

佐竹氏時代には一族の佐竹義賢が城代として入城したが、元和8年(1622)、一国一城令により廃城となった。