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秋田県能代市檜山霧山下

震災前取材

 

この館は、関ヶ原の戦いの後に、佐竹氏に従い秋田に移った多賀谷氏の居館である。

多賀谷氏は武蔵の多賀谷郷を発祥地とし、桓武平氏の流れを汲む。下妻を拠点とし結城氏に従っていたが、半ば独立した勢力を持ち、戦国期には、織田信長や豊臣秀吉に接近し、独自の生きる道を模索した。

天正18年(1590)、多賀谷氏は豊臣秀吉の小田原攻めに結城氏や水原氏と共に参陣し、戦後下妻の所領を安堵され、六万石に相当する知行を受けた。しかし、所領を安堵されたものの、秀吉から結城氏の配下に属することを命じられた。

多賀谷氏は、独立した領主として存在していたが、古くからの関係で、結城氏や佐竹氏とは深い関係があった。このことから多賀谷氏は結城派と佐竹派の二系統に分裂した。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦では、結城派の多賀谷三経は、結城秀康の陣代として上杉景勝の南下を抑える重要な役割を担った。しかし佐竹派の多賀谷宣家は、石田三成との関係から旗幟を鮮明にしなかった佐竹義宣に従った。

関ヶ原の戦いは、徳川方の勝利に終わり、多賀谷宣家は佐竹義宣の家臣に位置付けられ、佐竹氏とともに出羽への転封を命じられた。出羽に入部した宣家は、 慶長9年(1609)檜山城代としてこの地に配され一万石を領した。

しかし、元和6年(1620)の一国一城令で檜山城は廃城となり、城の山麓に居館を置きこの地を統治した。居館とはいえ、小さいながらも横矢も備え、檜山城跡を詰の城とした独立した郭の様相を持っており、宣家の大名としての思いが込められているようにも思われる。