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秋田県能代市檜山字小間木

震災前取材

 

多宝院は、檜山城代多賀谷氏の菩提寺である。多賀谷氏が常陸の豪族として勢威を振るっていた頃、延徳元年(1489)、現在の茨城県の下妻に創建された。

慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に転封になるとそれに従い、仙北郡白岩に入ったが、慶長15年(1610)、檜山城代となり、多宝院はこの地に移った。

現在残る本堂は明和9年(1772)、楼門は文化15年(1818)、鐘楼は18世紀後半のものであり、いずれも県の重要文化財に指定されている。また庭園は、京都の銀閣寺のそれを模したものと云われる。

多賀谷氏は武蔵の多賀谷郷を発祥地とし、桓武平氏の流れを汲む。下妻を拠点とし結城氏に従っていたが、半ば独立した勢力を持ち、戦国期には、織田信長や豊臣秀吉に接近し、独自の生きる道を模索した。

天正18年(1590)、多賀谷氏は豊臣秀吉の小田原攻めに結城氏や水原氏と共に参陣し、戦後下妻の所領を安堵され、六万石に相当する知行を受けた。しかし、所領を安堵されたものの、秀吉から結城氏の配下に属することを命じられた。

多賀谷氏は、独立した領主として存在していたが、古くからの関係で、結城氏や佐竹氏とは深い関係があった。このことから多賀谷氏は結城派と佐竹派の二系統に分裂した。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦では、結城派の多賀谷三経は、結城秀康の陣代として上杉景勝の南下を抑える重要な役割を担った。しかし佐竹派の多賀谷宣家は、石田三成との関係から旗幟を鮮明にしなかった佐竹義宣に従った。

関ヶ原の戦いは、徳川方の勝利に終わり、多賀谷宣家は佐竹義宣の家臣に位置付けられ、佐竹氏とともに出羽への転封を命じられた。出羽に入部した宣家は、この檜山の地に配され一万石を領した。