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秋田県八郎潟町浦大町字小坂

震災前取材

 

浦城は、八郎潟の東、高岳山から東方向に延びた比高約100mの丘陵尾根上に築かれた直線連郭式の山城である。西から尾根上に郭が連なり、それぞれの郭は切岸と空堀で区切られている。尾根のさらに東側に一段と急峻な切岸が見られ、そこが鐘楼跡とされ、その先に武者溜り、さらに東に一段高く主郭があり、南北に数段の腰郭が配されている。主郭のさらに東に二の郭が配されている。

創建時期は明らかではないが、天文年間(1532~54)から弘治年間(1555~57)の頃は千葉氏、その後は三浦氏が居城としていた。三浦氏は相模国三浦半島を本拠地としていた鎌倉幕府の重臣だったが、北条氏に敗れ一時は滅亡状態になった。しかしその後、その一族が関東管領上杉憲政の下へ身を寄せ、戦国期に秋田にやってきたと云う。

三浦氏の秋田への入部については詳細は不明であるが、湊安東氏に従い、八郎潟東岸に土着し、着々と勢力を伸ばしたと考えられる。戦国期には湊安東氏の影響下にはあったが、独立した国人領主だったと考えられる。その後、湊安東氏と檜山安東氏が対立し、その挟間にあった三浦氏は、浦城の南東に支城の山内城を置き、檜山安東氏や阿仁衆に備えた。

天文20年(1551)、湊安東氏の安東尭季が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季が、両家の統合を図るため弟の茂季を送り込んだ。そしてこれに抗する豊島氏らと戦いこれを破り安東氏を統一した。

しかし愛季は、天正15年(1587)、横手城の小野寺義道、角館城の戸沢盛安らと対立し、「唐松野の戦い」の最中に没した。その跡を12歳の少年だった実季が継いだが、これを契機に豊島氏に身を寄せていた湊安東高季は、檜山安東氏からの独立をめざし、愛季の子実季に対して兵を挙げた。

この時、湊安東氏の旧臣の多くは高季のもとに走り、高季は檜山城を攻撃し、この時、三浦盛永も湊安東氏側で戦ったと思われる。実季は檜山城に半年籠城し湊安東勢の攻撃に耐え、由利十二頭等の与力を獲ると攻勢に出て湊安東勢を打ち破り、逆に湊方面に進撃を開始した。天正17年(1589)、実季勢は浦城に押し寄せ激しい戦闘が繰り広げられたが、浦城、山内城はともに落城し、三浦盛永は討死にしたと伝えられる。

落城時、盛永は夫人を落ち延びさせたのを確認すると、城の裏手に位置する西観音滝に上がり、「剛なる者が死するのを見るがよい。そして汝ら明日の運尽きて自害せん時の手本とせよ」と言い、腹を十文字に掻き切り、臓腑を掴んで攻め手の兵に投げつけ、壮絶な最期を遂げたと云う。また夫人は、逃げ延びる途中に陣痛が起き、一子千代若(後の五郎義包)を産み、これを家臣に託し、夫の愛刃で腰元らと自害したと云う。千代若は酒田に逃げ延び、後に押切城主になった。

現在、城址は地元のNPOらの手により遊歩道が整備され、空堀や切岸などの遺構は良好な状態で保存されている。また間伐材を利用して柵や物見櫓が造られ、中世の姿が復元されつつある。