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秋田県五城目町神明前

震災前取材

 

五城目神明社は、元徳年間(1330頃)、修験日桂山泉蔵院の創祀と伝えられるが詳細は不明である。しかし文化6年(1809)の棟札が残っており、近世を通じ、この地の鎮守として崇敬を集め、お伊勢堂と呼ばれていた。

この神明社の一角に十三騎神社があり、南部の家臣北弾正とその家臣12名の計13人が祀られている。五城目町に変事がある際は、白馬が鈴を鳴らしながら知らせるという伝説が伝えられる。特に火事の際に現れると言われ、火伏の神の性質が大きい。

天正16年(1588)、安東氏の内乱である湊合戦の際に、比内の三浦秀兼(五十目兵庫)は、安東氏を離れ南部氏についた。三浦秀兼は内乱収束後安東実季により攻められたため、南部の家臣の北弾正が救援に赴いた。しかし弾正は敗れ、五城目まで落ち延びたが、五城目はすでに安東勢に占拠されていたため、神明社後ろの立腹池で家臣12名とともに自害した。その後、この霊魂が怪をなしたため、里人達が社を建て祀ったと伝える。

また一説には次のようにも伝えられる。

南部の重臣である北信愛の長子の愛清(北弾正)は、比内郡を巡り、南部側についた五十目兵庫を助け、安東氏との抗争で活躍した。しかし大館表の戦いにおいて、後継者争いをしていた異母弟の定愛の罠に嵌り、安東氏側の捕虜になった。愛清は、湊城に移送される途中、南部氏に恨みをもった五十目氏の一族の、内記秀盛に襲われ、この地で自害した。その後、里人達によってこの地に祀られた。