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秋田県秋田市八橋本町…日吉八幡神社境内

震災前取材

 

石川理紀之助(りきのすけ)は、「聖農」と称えられた秋田県生まれの農業技術指導者。

理紀之助は、弘化2年(1845)秋田の金足村で、豪農で有名な奈良家の分家に生まれた。旧姓は奈良、初名は力之助。慶応元年(1865)、21歳の時に、潟上市豊川山田の石川家の養子となった。明治6年(1873)から10年間、秋田県庁の勧業課に出仕した。その間、秋田県に今も残るイベントである種苗交換会を開設するなど、秋田県の農業の土台を作った。

しかし、貧農を救済したいという思いから秋田県庁を辞職、生涯を農家経営の指導や、農村経済の確立に尽くした。当時は高利で借りた借金のため自作農が減少し、夜逃げする農民が頻発していた。理紀之助はまず山田村の借金を返す計画を建てた。堆肥を2倍にしたり、生活費をきりつめたり、藁製品や蚕、果物を販売し、借金を7年で返済することを計画した。山田村経済会を組織し、村人が一致団結して事業に取り組むことを誓った。村人に朝仕事を励行させるため、石川は午前3時に板を打った。そして一軒一軒まわって歩き、村人を励ました。しかし理紀之助は人間の弱い心を配慮して、寝ている家を無闇に叱咤することは無かった。

山田村の借金は計画の7年よりも短い5年で全て返済した。石川はそれを農商務省で発表し、乞われれば各県に出かけ講演を行った。このとき石川は、「寝ていて人をおこす事なかれ」という言葉を残している。また理紀之助は、草木谷で実際に貧農の生活を送り、自らの主張する方法が貧農救済に役立つということを身をもって示した。

明治13年(1880)には県会議員に当選した。当時の選挙法は立候補を必要としておらず、これは理紀之助のそれまでの献身的な努力に対して感謝する人々が運動してのことだったが、驚いた理紀之助は直ぐに辞職したと云う。

その後も秋田県仙北郡の一貧村を救済、また九州の谷頭村など2県8郡49町村の部落において全般的調査を行い、それに基づいて総合的な将来計画を立案するなど精力的に活動し、秋田の二宮翁と呼ばれ、大正4年(1915)9月、おしまれつつ没した。