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秋田県秋田市寺内児桜一丁目

震災前取材

 

崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀ったと云う。齶田浦神は、一説では蝦夷が信仰した地主神または海洋神と云われ、「齶田」は「秋田」の古名であると云う。

その後、斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王(こしおう)神社として創建したとされる。新潟、山形、秋田を中心に、北陸、東北地方の各地に胡四王、古四王、越王、巨四王、高志王、腰王、小四王、小姓等という標記の神社が多数分布することから、越の国を中心に北方に広がった阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が同一視されたものとして、かなり古くから信仰された神であるとも考えられている。

また、延暦21年(802)、坂上田村麻呂が蝦夷討伐に際しこの地に来たり、戦勝祈願をしたと伝えられており、田村神社が境内に存在する。

この地は秋田城の跡に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬され、秋田城介を称した安東氏の寄進も受けている。江戸時代に入っては、佐竹氏が秋田地方に入部した後も社領を寄進され、江戸期には近隣住民からは、単なる北方鎮護の武神としてではなく、豊作や眼病に霊験あらたかと広く崇敬された。

明治15年(1882)には国幣小社に列せられ、以降秋田県内の神社では最も高い社格となった。