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秋田県秋田市土崎港中央三丁目

震災前取材

 

湊城は、現在の 秋田市土崎にあった平城で、安東氏の本拠城だった。内堀の一部とされていた水堀が公園の東側に昭和30年代まで残っていたが、現在は宅地化により埋め立てられ、遺構はほとんど残っていない。

築城時期、築城者ともに定かではないが、一説には永享8年(1436)に安倍康季が土崎の将軍野の西北に築いたのが初めとするものもある。

安東氏は前九年の役で滅んだ安部氏の子孫とも伝えられ、室町時代には津軽十三湊を本拠地にして日本海上を支配していた。応永元年(1394)、安藤貞季の二男鹿季は兄の安藤盛季の命を受け兵200余騎を率いて秋田湊城主秋田城介顕任を討ち取り、湊に移り住んだといわれる。鹿季はこの後湊氏を称し、秋田城介を名乗り、湊安東氏となった。

一方、十三湊の安藤氏は、盛季が南部氏に敗れて蝦夷地に逃れ、後に盛季の後継の政季が湊安東氏に招かれて現在の秋田能代の檜山に土着し、檜山安東氏となった。その後、湊安東氏は安東尭季が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季が、両家の統合を図るため弟の茂季を送り込んだ。しかし、それに反発した湊安東氏配下の国人の一部が反乱を起こした。この反乱は愛季により鎮圧され、愛季が湊城に入ることによって両家を統合し、男鹿半島から秋田・比内地方を支配した。

愛季の子の実季が家督を継ぐと、湊安東高季が謀反し湊騒動が起こったが、実季は由利の赤尾津や羽川氏の援助でこれを鎮撫し、秋田郡の支配権を確固たるものにした。この後、実季は拠点を檜山城から湊城に移し、慶長4年(1599)から湊城の大規模な改築を行った。記録によれば、湊城は二重の水堀をめぐらし、土塁によって守られた平城であったとされる。湊城は慶長6年(1601)に完成したが、実季はその翌年の慶長7年(1602)に常陸宍戸に転封となった。

安東氏にかわり常陸から秋田転封となった佐竹義宣が入城した。しかし、54万石の大名であった佐竹氏は多くの家臣団を抱え、湊城では狭く、また拡張の余地も少なかったため、義宣は慶長9年(1604)に久保田神明山の地に新たに久保田城を築城し移り、湊城は破却された。元和6年(1620)には跡地に土崎神明社が建てられている。

湊城は平城であったため、取り壊し後の土地はその多くが町人の屋敷となり、江戸時代における土崎湊町の隆盛の基盤となった。