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秋田県秋田市寺内大畑

震災前取材

 

別名:出羽柵

秋田城は当初は出羽柵(でわのき)と呼ばれていた。古代の出羽に設置された城柵で、始めは山形県の庄内地方に設置され、後にこの地に移設された。

秋田城は高清水の丘陵上に築かれ、周囲550m四方を瓦葺の土塀で囲まれていた。この外郭築地塀に囲まれたほぼ中央に、東西94m、南北77mが築地塀で区切られ、ここが秋田城の中心であった政庁が置かれた。

現在は国の史跡に指定され、外郭東門と築地塀の一部が復元され、周辺部は歴史公園として整備が進んでいる

出羽柵が設置された当時の朝廷は、東北地方の蝦夷征服活動を進めており、和銅元年(708)越後に出羽郡がたてられた後、和銅5年(712)に出羽国が置かれ、この前後に出羽柵が設置されたと考えられる。出羽の国府機能は、この出羽柵が果たしていたようで、城柵であると同時にその周辺地域を統治する行政機関としても機能していた。

朝廷は、和銅7年(714)頃から、全国から出羽国へ入植させた。これは蝦夷を教化し、出羽国の開発、開拓を進めるためのもので、また律令制支配を徹底し、城柵への兵士の供給源でもあった。

天平5年(733)、出羽柵はこの地へ移設され、出羽国府も秋田へ移されたものと考えられ、天平宝字4年(760)頃に、出羽柵は秋田城と呼ばれるようになった。また、蝦夷や中国大陸の渤海国との交易の拠点としても重要な役割を果たしていた。

この頃、蝦夷からの攻撃は次第に厳しくなり、宝亀11年(780)頃には朝廷は専任国司と軍兵を派遣し防御を固めた。この頃に出羽国府は秋田城から山形県酒田市に移設されたと思われる。しかし秋田城はそのまま設置されていたと思われ、秋田城には秋田城介が常置された。

平安時代の天長7年(830)、秋田地方の大地震で城郭は大きな被害を受けた。さらに元慶2年(878)には蝦夷の反乱によって国守が逃亡するという騒動が起こり、朝廷は軍を送りようやくこれを鎮圧した。

天慶2年(939)にも、蝦夷が反乱を起こすなど不穏な政情が続き、永承6年(1051)には前九年の役が勃発する。しかしこの頃には秋田城介は遙任制となっており在城していなかったため、秋田城の役割も衰退し、歴史上からその姿を消すことになる。しかしこの地方にその権威は存続したようで、安倍氏の流れを汲む湊城主が秋田城介を名乗り、その後この地に入った湊安東氏が秋田城介を名乗ることになる。