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秋田県秋田市土崎港相染町…新日本石油構内

震災前取材

 

秋田港は雄物川の河口に発達した港で、もとは土崎港と呼ばれていたが、昭和16年(1941)に秋田市と土崎港町が合併したことで秋田港と改称された。

土崎の秋田港周辺には、現在でも採掘可能な油田が存在しており、かつて日本石油秋田製油所が存在していた。太平洋戦争期間中も空襲に晒される事も無く無傷のままだったが、終戦前夜の昭和20年(1945)8月14日の夜10:30頃から翌日未明にかけて、土崎は米軍機による激しい爆撃を受けた。

目標は無傷で残っていた製油所の破壊で、132機のB29が来襲、12,047発、約1000トンの爆弾が投下され、製油所周辺は真っ赤に燃え上がり、製油所施設の約90%、貯蔵設備の約70%が破壊された。また夜間の攻撃だったために、目標をそれて被害は工場周辺の住宅地区にも及び、港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受けて沈没した。

当時、製油所付近は沼地や湿地帯で、犠牲者の多くは逃げ場を失い沼地で犠牲になった方々が多く、爆撃の後に沼地の中に続く製油所までの道路には、湿地帯から引き上げられた犠牲者が延々と横たえられたと伝えられる。

この秋田土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。