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秋田県秋田市手形字大沢

震災前取材

 

秋田大学の東側の手形に、江戸時代後期の国学者である平田篤胤の墓があり、国の史跡に指定されている。篤胤は、復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人の中の一人として位置付けられている。

平田篤胤は、安永5年(1776)、秋田久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下の下谷地町に生まれた。20歳のときに故郷を捨て江戸に出奔する。この理由は定かではないが、当時の秋田久保田藩は財政危機にあり、藩士の給料から強制借上げが恒常的に行なわれるなど非常に不安定な情勢にあり、わずか100石の大和田家は経済的にも困窮していたと思われる。また、また父親との関係もうまくいっていなかったようで、後に「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」と回想しており、このような中での出奔だった。

無一文同然で江戸に出た篤胤は、生活の為に火消しや飯炊きなどもし、生活の苦難と戦いながら勉学に励んだ。寛政12年(1800)、25歳の折に、備中松山藩士、山鹿流兵学者であった平田篤穏(あつやす)の目にとまり養子となった。

その後、本居宣長に傾倒したが、宣長を知ったのは宣長没後のことで、没後の門人となったようだ。享和3年(1803)、『呵妄書』を著し、その後、次々と著作を著し、文化3年(1806)より私塾真菅乃屋を開いた。多くの著述を行う中で、本居宣長の思想を基にしながらも、次第に平田学の思想の根幹が形作られていった。文化8年(1811)、『古史成文』『古史徴』『古史伝』など古代研究の本を一気に書き上げ、これらの草稿が後に平田学の中核的中心教義となる。

篤胤は、幽界や冥界などの異界を信じ、当時江戸を賑わせた天狗小僧寅吉の面倒を見たり、異国に於ける仙人や神の存在についての研究もしている。しかし本居宣長の門人らからは異端視され批判を受けることも多かったが、自ずからは宣長の正当な継承者と自負していたようだ。

篤胤は『天朝無窮暦』を著したが、この中で幕府の暦制を批判し、それが幕府の目にとまり、天保12年(1841)篤胤は故郷である秋田に帰るように命じられ、以後の著述も禁止された。これは、それまでの篤胤の激しい儒教否定と尊王主義によるものともいわれている。

秋田に帰った篤胤は2年後の天保14年(1843)に68歳で病没した。遺言に従って、衣冠束帯の姿でこの地に葬られ、師と仰ぐ、本居宣長のいた伊勢の方角に向けられていると伝えられる。

この時点での門人は553人であり、1330人が没後の門人となった。篤胤の教えを引き継いだ門人らは、やがて水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、戊辰戦争の際には、秋田久保田藩は奥羽越列藩同盟に加盟しながらも藩論が統一せず、結局同盟を脱し、戊辰戦争を官軍側で戦うことになる。